龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

橋下氏はもはや限界か。

橋下氏は、当初はもう少し政治家として大成する見込みがあったようにも思ったものだが、ちょっと苦しそうだな。大成以前に、政治家に成り切れていないように見える。中身はまだタレント弁護士から完全に脱皮できていない。どこがどうと具体的に指摘するのもあまり気が進まないが、敢えて言えば、例えば弁護士であればAという依頼人のA事件と、Bという依頼人のB事件において、法廷で主張するところの法律解釈に整合性が取れていなくても、誰からも批判される筋合いはない。むしろ依頼人の利益のために働くのが弁護士の務めであるのだから当然のことである。矛盾していても構わないのだ。基本的には正義は、依頼人の利益の中にある。しかし政治の仕事は、弁護士的な思考論理とは根本的に異なっていなければならないはずである。ところが橋下氏の場合は、A、B、C、3件の問題があるとすれば、個別に対応して、個別の反応をしているように見えるだけで、そのA、B、Cを一つの人格において総合されるところの理念とか、信念というものが、今一よく見えてこないのである。本人は一貫した考えと姿勢で、問題に対処しているつもりなのかも知れないが、傍目に見ると、突発的な思いつきで何事か言っているようにしか見えないものである。もちろん私にはそう見えるということであるが、どうなのだろうか、私のような感想を持つ人は決して少なくはないと想像されるのだが。それともう一つは、タレント出身の政治家として、その注目度や発信力の高さが政治家としての利点になっていることは本人も自覚されていることとは思うのだが、それと純粋な政治能力は異なるものであることを、どれほど橋下氏自身が自覚できているのかという事である。その点においても私は当初、橋下氏は冷静に自分の政治家としての特性を客観的に分析し、計算しているようにも見えたのだが、どうもそうではないことが判明してきた。何というのか、この人は「天然」なのである。それはよく言えば正直ということだから、単に正直さというバロメーターの基準においてなら、信用、評価もできるのであるが、それでは政治家としてはいかにも物足りない。橋下氏には、自分の個性とか能力を一歩引いた地点から、政治的に統合してPRする頭の良さや成熟を持ち合わせていない。それがこの人の限界になっているように私には感じられる。目前のことに感情的に埋没してしまっていて、有権者から見れば、遠近法の欠けた下手くそな絵のようにも見えるし、抑揚のない単調なピアノ演奏のようにも聞こえる。その延長上で、サザンオールスターズのコンサートで立ち上がらずに座っていたことを指摘されただけの記事に対して、我々一般市民には何の関係もないことなのに、向きになって延々と反論したり攻撃したりもする。そこにあるのは、正論ではなくて子供っぽさだけである。また橋下氏には、そう言った個人的な恨みと憲法改正のような国の重大事を、同列に平気で述べる傾向があるので、有権者的にはちょっと気分的について行き難いということになる。結局そう言った単一平面的な精神性とは、TVから出来しているものであることは言うまでもないことであろう。奥行が感じられないのである。橋下氏はいまだにTVの型枠に囚われている。本人が自覚できているかどうかはともかくとして。恐らくは、何もわかっていないのであろうが。