龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

偽りの民主主義

選挙が不正なく公正に行われているということが、民主主義社会の基本中の基本であり大前提ではないのか。その根本が信用できないということであれば、大袈裟ではなく生きていることすら嫌になってくる。昨日の大阪都構想についての住民投票は明らかに怪しい。票の操作がなされている可能性が高い。誤解のないように言っておくが、個人的には大阪都構想大阪市民の一人として賛成票を投じたが、その結果はどうでも良いとは言わないが、選挙の公正性が保たれているかどうかという問題の大きさ、深刻さから比べれば取るに足りないことである。政策の在り方や改革の中身よりも何よりも民主主義というシステムの正義を政治は命懸けで守らなければならないのではないのか。民主主義の正義とは、言うまでもなく選挙に不正がなく、まかり間違っても票の操作が為されないということである。大半の人間は世間の常識に絡め取られて選挙の公正性に疑いの目をもち得ていないようであるが、私は日本では水面下の票の操作はその選挙の内容や質にもよるが、ほぼ常態化しているのではないかと考えている。今回は橋下氏の執念で何とか住民投票の実施にまで至ったが、そもそも日本において住民投票が他の先進国に比べて少ないという事実が、日本の民主主義が実質的に形骸化しているというか、元々成立していないということの何よりの証左である。日本の民主主義は上辺だけで実質が伴っていない。国民や市民に重要な政策の決定をされると日本の権力は困るのである。よって日本では世間の常識はともかくとして、常に票の不正操作が為される土壌があると言える。また本物の民主主義が市民闘争的に勝ち取られてきていないから、そのような根本的な社会の嘘を見抜く目もいつまで経っても市民に育ってこないのである。橋下氏は敗者の弁として、民主主義を礼賛するようなセリフを記者会見で何度も繰り返していたが、それは逆説やアイロニーではなくあの人の限界を示しているのだと思われる。橋下氏は馬鹿ではないから本当は昨日の時点で気付いているであろう。自分が票の不正操作によって結果的に政治家生命を絶たれ、政界から追放される憂き目にあっていることを。しかし弁護士としてのメンタリティー(主にエリート意識)が災いしているのであろうが、民主主義とか法律や社会の基本的なルールを否定したり毀損するような発言をしたり、思考することすら決して自分自身に許さないような精神構造に固まってしまっているのである。そう言う意味で橋下氏は本物の政治家にはなり得ていなかったし、またその点が弱点だからその甘い部分を絶えず突かれて、最終的には潰されてしまったのである。政治はそういう世界である。日本の民主主義はまがい物だが、政治の汚さだけは本物である。