龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

政治の邪なる正道

橋下氏が任期満了時点で政治家を辞めるのは、惜しいようでもあり、どうでもよいような複雑な気持ちである。どうでもよいなどとは、ちょっと気の毒な言い方かも知れないが、惜しいと同様にそれもまた正直な感想なのだから仕方ない。私は自分では橋下氏の能力の限界が早くから見えていたような気がする。頭は良いし、弁舌も論理的で分かりやすくて、大衆を惹きつける能力はあるとは思う。しかし彼に備わっているある種の清心さとか潔癖性は、言わば裁判所の狭い法廷内でこそ相応しいものであって、政治の世界に要求される正義感や理想、改革に邁進する人格の土台となるものとは、ちょっと異質なような気がするのである。もちろん他の政治家とは一線を画する新鮮さがあるので注目度は高いし、発信力も優れてはいるのだが、政治はもっと何ていうか、本質的に割り切れないもの、論理ではなくて情念や怨念、時代の空気や大衆の声なき声をセンシティブに感受して自分の思想と共鳴させてゆく、そういう世界だと思うのである。橋下氏は政治の怖さやおぞましさが自分ではよくわかっているつもりでも、その底の深さが見えていなかったように思えてならない。今回の住民投票についてもそうだが、自民党ほか民主党共産党までこぞって一致団結して反対したのはなぜなのか。政治的な考え方の相違も当然あるであろうが、根底には嫉妬の感情が大きなウエイトを占めていた思う。それはそうであろう。もし賛成多数となって大阪市廃止、再編が決定されてしまえば、間違いなく橋下氏は歴史に名を刻む政治家となっていたのである。将来の教科書にも載ることとなったであろう。そういう名誉の独り占めに対する凄まじいまでの反発、拒否反応が維新の会以外の政治家たちの本心であったと想像される。また維新の会が大阪都構想の改革を一旦、成し遂げてしまえば、その後の大阪都議会においては新しい大阪の土台を築き上げた偉大な功績のある党として他党に対する優位性が半永久的に固定化されてしまうこととなる。それもまた自民党ほか野党の立場からすれば絶対に許してはならない状況である。特に自民党の反発、反対は街宣運動などを見ていても死に物狂いの観すらあった。つまり反対派の真意は、大阪の行政改革に対する考え方云々の問題ではなかったのである。大阪市民や大阪府民の利益や幸福とも何ら関係のない抵抗であった。そこにあったのは渦巻くような嫉妬の感情であったのだと思われる。もちろん感情は表面上の精緻な論理構成で見えないように隠されてはいる。しかし大元の問題は感情にあるのだから、表面上の論理といくら意見を戦わせても話しが噛み合うわけがないのだ。この感情の縺れを相手に議論することの無意味さと不毛性を橋下氏はどれだけ見極めることが出来ていたかだ。民主主義だから議論と論理が全てだという考え方は一面の真理に過ぎない。根回しとか取引や恫喝、そういうクリーンでないものも政治にとっては不可欠な要素なのであろう。特に嫉妬などの感情の問題は厄介である。夫婦喧嘩と同じだと思う。感情的になって怒っている相手に対し、論理で説得しようとしても、それがどんなに素晴らしい論理でも相手の感情が拒否し続けるのだから、無駄であるどころか火に油を注ぐことにもなりかねない。基本的には感情の問題は感情で対応し、解決する以外にはないということであろう。それに感情と論理がぶつかれば実際には感情の方が強いのである。論理は常に負けてしまうのだ。泣く子と地頭には勝てぬなどと言うが、道理は受け入れられてこそ効力を発するのであって、論理や道理を無視して延々と駄々を捏ね続ける人間の方が結果的に勝者となる場合の方が現実社会には多い。それが政治(政治家)と法廷(弁護士)の根本的な違いなのだと思う。橋下氏に言わせれば、民主主義には最終的には、投票による多数決の明快な原理があるということになるのだろうが、前回にも述べた通りそれも本当は明快かどうかはよくわからないものである。選挙や投票というものには多分に不正やインチキの要素を含んでいるものであって、そういうことを踏まえてこそ政治なのであって、その可能性を端から度外視しているのでは元からある信用という名のフィールドに立っているだけのことである。それで最後には、嫉妬心に固まった駄々を捏ね続ける人間たちのはかりごとによって打ち倒される運命となるのである。なぜなら政治の世界ではそういう種類の人間たちの方がある意味では正道であると言えるからだと思う。