龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

子役タレントの宿命

本当は芸能人の悪口や傷付けるようなことは言いたくはないのだが、前から思っている事があって、この機会に言わせていただくことにする。何かと言えば、子役タレントのことであるが、あれは一つの奇形みたいなものだと思う。なぜ、どういう風に奇形なのかと言えば、その時点の存在感なり芸風が、人生におけるピークとして完成されているように見えることにある。有り体に言えば、「子供らしくない」ということであるが、別に一時的に子役の時代に子供らしくなくとも、大人になって成長してゆくにつれて役者やタレントとして、子役のイメージから脱皮して新たな才能を開花させてゆくことが出来ればよいのであろうが、大抵はそうはならない。子役の時の子供らしさのない演技や芸風が、頂点となっていて、後は輝きを保つことが出来ずに、落ちぶれてゆくばかりである。子役の時は天才なのに、大人の仲間入りするような年ごろになると凡人以下になってしまう。これは私の個人的な感想なので批判されても困るが、その象徴的な女優が、安達祐実などであろう。私の目には、小さな頃に家なき子というドラマに出ていて、「同情するなら金をくれ。」の名セリフを放っていたころと何ら変わっていない。その子役当時のままに年だけ取ってしまったような印象を受ける。むしろ子役の時の方が反対に大人びて見えたものでもあった。安達祐実は今でも芸能界に残っているだけましだと言えるのかも知れないが、大人になって一皮剥けて、化けたとか花開いたという感じはまるでない。子供の時の天才ぶりとはあまりにも対照的である。これは子役タレントの宿命のようなものかも知れないが、親の保護下にある小さな時に莫大な金とか名声などを一挙に手に入れてしまうと、世間的なイメージの固定化ということよりも、何と言うのか、内在的かつ形而上的にその存在感が栄華を極めた状態に留まろうとするためにそこから成長して変化していけないのではないかと思われる。だからこう言っては何だが、安達祐実は実年齢は何歳か知らないが、未だに子供のままである。セミヌードの写真集を出すなどと言われても、今の日本の法律の下では下手にそのようなものを所持すると捕まるのではないかと心配になってしまうぐらいである。私は正直に言ってそのような写真集を欲しいとも見たいとも思わない。おそらくは本人もいろいろと行き詰まりを感じているからこそ、その状態から打破するために、セミヌードとか映画のいわゆる濡れ場などにチャレンジするのであろうが、どうなのだろうか、厳しい意見であろうが私には元子役女優の悪あがきにしか見えないのだが。大人しく家で、良き母親を演じていた方が良いのではないのか。そうでなければその内に自分の子供が、家なき子になってしまって「同情するなら金をくれ」などと言い出しかねないよ。とにかく元子役タレントという存在は、なかなか難しい存在だということが、安達祐実を見ているとよくわかる。杉田かおるなどもタイプは異なるが、元子役の難しさと言う点では、質的には同じだと思われる。真っ直ぐに成長してゆけないのであろう。だから子役タレントとは本質的に奇形を内在させていると見る事が出来るものである。
海外に目を向けると子役女優として例外的に大成した女優に、アメリカのジョディー・フォスターがいる。子供の時に天才で、大人になっても凡人ではない例外的なケースである。しかし、そのジョディー・フォスターにしても私は出演作を全て見た訳ではないが、出世作である『タクシー・ドライバー』でデ・ニーロと共演し、少女の売春婦を演じていた時の存在感がやはり一番、強烈であったように思われる。要するに子役のスターとは、どこかで大人になることを拒否し続ける永遠の子供なのである。マイケル・J・フォックスなどもどこかそういう匂いのある俳優である。