龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

資本主義と民主主義の崩壊

それではなぜ日本の国家権力、いやはっきり言えば自民党が開票に介入して、不正を指示してまで(私はそうだと考えている)、大阪都構想を妨害したのであろうか。先ず第一に前回も述べたことだが、日本の政治権力が、国民が重要な政策を決定するところの直接民主主義住民投票という手段を表面的にはともかく内心では強く忌避している。おそらくは衆愚政治そのものだと考えているのであろう。また住民投票による決定(特に否決ではなく可決)が今後、増えていくこととなれば、結果的に政治家の存在意義、存在価値が薄らいでいくことになりかねないとの不安感、抵抗もあったであろうと推測される。
第二に大阪都構想というものの国家的見地からの効果をどう看做すかという問題である。要するに国が賛成して後押しすべきか、反対して妨害すべきかということであるが、自民党は選挙ポスターなどで「地方こそ成長の主役」などと謳っているために表立っては反対できなかったが、地方(大阪)だけでなく国(政権)も明確に反対だったのである。安倍総理や菅官房長官が橋下氏との協力関係を重視して賛成しているかに見せかけていたのは国民をミスリードさせるための情報操作である。国民だけでなく橋下氏や維新の会までもが騙されていたようであるが、私に言わせれば騙すが方が悪いにせよ、騙される方が馬鹿なのである。それでは実際のところ大阪都構想が実現した場合の有効性はどうであったかと考察すれば、橋下氏は東京という単発のエンジンではなく、東京と大阪の双発のエンジンでより強力に日本に浮揚効果をもたらし得るというような説明を当初していたように記憶しているが、果たしてどうであろうか。これは中々難しい予測だと思われるが、実際には机上の分析ではなく現実に試してみないと分からないことであろう。確かに二重行政の解消という点ではすぐに結果が出るであろうが、日本全体での功罪や有効性は5年とか10年ぐらい経過しないことには検証することは難しい問題だと考えられる。ただ自民党的な思考回路ではどういう政治判断になるかと推測するに、世界全体の景気が拡大傾向にあるのであれば、東京と大阪の双発のエンジンという理屈は成り立つかも知れないが、現在ははっきりと縮小傾向にある。縮小傾向にあるということは一定のマーケットの中で熾烈にシェアの取り合いをしているということである。日本の都市は世界の大都市と都市間競争をしているだけではなく、日本国内においてもその地位を争っている。仮に大阪都構想によって大阪の都市整備が進み、魅力や利便性が高まり、企業や人材、金が東京から大阪に流入してくるとする。(私は大阪人であるからそうなることを願っていたのであるが。)それで仮に大阪が2割パワーアップして、東京が2割パワーダウンすれば果たして日本全体で見ればどうなのかということである。浮揚するのか、停滞しているだけか、それとも失速(墜落の危機)を意味するのか。どうなのかというよりも日本の国家権力がどう考えるかということである。結論を先に述べれば、浮揚どころか相殺してプラスマイナス0で現状維持ということにすらならず、日本全体では大幅なマイナスになると看做されることになると思われる。だから不正をしてでも阻止しなければならない理由になるが、なぜそういう解釈が成り立つかと言うと、最近読んだ『資本主義の終焉と歴史の危機』(水野和夫著 集英社新書)がわかり易く、参考になるのでテキストとして参照の上、説明させていただく。同書の内容を簡単に要約すれば、今や日本だけでなく世界全体で資本主義は最終局面を迎えタイトル通りに終焉の段階に差し掛かっている。その原因は資本主義とは「中心」と「周辺」の区分によって構成されているものだが、20世紀末までの中心=先進国(北)と周辺=途上国(南)の「地理的、物理的空間」は、21世紀に入って「周辺」が開拓され尽くし、もはや拡大すべきフロンティアが残されていない状態に陥っている。アメリカは資本主義の延命を図るために、地理的、物理的空間の実物経済から「電子、金融空間」に利潤を獲得するチャンスを見出し、アメリカが中心となって金融の自由化、グローバリゼーションを強力に推し進め、世界中の金を集めて金融帝国化してゆくこととなった。しかしこのアメリカの金融帝国も2008年に起きたリーマンショックによって崩壊し、今や物理的な空間だけでなく電子空間においても収奪すべき辺境は消失してしまっているのである。これが資本主義の危機の本質である。また1995年に国際資本の完全移動性が実現し「電子、金融空間」が国境を越えて一つに統合されて以降は、資本主義の様々な矛盾が顕現してゆくことになる。資本と労働の分配構造は破壊され、景気の善し悪しに関わらず賃金は上がらなくなる。資本が国境を越えられなかった1995年までは国民と資本の利害は一致していたから資本主義と民主主義は衝突することがなかった。しかし今や資本主義の危機に及んで経済だけではなく、民主主義もまた破壊されようとしている。その理由はグローバル経済体制の中で、「中心」と「周辺」の組み換えが引き起こされて、強引に国内に周辺(格差)が作られることで資本主義の延命が図られる結果となっているところにある。雇用における非正規社員のような存在がそれに該当する。民主主義とはこれまで価値観を共有する中間層の存在によって支えられてきたものであるが、現在では中間層の没落によって民主主義の基盤が破壊される事態となっている。
主権国家システムが支持されるのは、それが国民にも富を分配する機能をもつからでした。近代初期の絶対王政では資本と国家は一体化しているものの、まだ国民は登場していません。その後、市民革命を経て、資本主義と民主主義が一体化します。市民革命が起きてからは、主権在民の時代となり、国民が中産階級化していきます。このように資本主義と民主主義が一体化したからこそ、主権国家システムは維持されてきたのです。」146pより引用。
ここからは私見である。イギリスやフランスなどのヨーロッパの国々と違って日本の民主主義は市民革命を経ていない。単に戦争に負けてアメリカに新憲法と民主主義を急ごしらえで移植されただけのことである。だから日本では民主主義だ、主権在民だなどとご大層にその意義をいくら強調したところで、その歴史は100年も経っていないし、内実的にも本当は空疎なものなのである。また空疎であるからこそ日本の社会システムを恒常的に維持するためには、絶えず日本の民主主義が本物で充実しているように国民に見せかけて、信じ込ませる必要性があるということなのだ。それでその役割は日本では主に大マスコミ組織が担っているのである。こういうことを言っても信じられない人の方が遥かに多いであろうが、日本の大マスコミは報道による情報操作によって、民主主義の幻想を維持するための政治組織なのである。その常套的な手法とは政治と金の問題など特定の分野に集中させて報道し続けることで健全な民主主義の正義が果たされているかのように国民の目を欺き、それ以外の信じられないような政治の巨悪に対しては、マスコミは政治と結託しているというか実質的には政府の広報機関になっているケースが非常に多いであろうということだ。日本の秩序、恒常性を維持するためにはどのような国家犯罪にも基本的にはマスコミは沈黙してしまうものである。よって国家権力の中枢にいる政治家は日本の民主主義が空疎であることを百も二百も承知している故に、住民投票の開票で不正を支持することぐらいでは恐らくは何の良心の呵責も感じないのであろうし、大マスコミもまた重大な国策としてそのような要請があれば、どのような不正行為の協力や口封じにも簡単に応じてしまうのであろうと思われる。しかしこのような日本の民主主義のインチキや欺瞞性も先に紹介したような世界的な資本主義の終焉の段階を迎えるにあたってこれまでのように隠しおおすことが難しくなってきているのであろう。一億総中流の時代にあっては偽物の民主主義であっても政治とマスコミの連携プレイで偽物が本物らしく見えていたし、また通用もしたのである。それが資本主義の限界と中間層の没落による民主主義の崩壊によって虚飾のメッキが剥がれかけてきているのだ。自分で言うのも何だが私のような人間はその新たな時代の先駆けだ。資本主義が終焉を迎えているのであれば先に述べた著書の水野和夫氏が主張するようにポスト資本主義のシステムの在り方を模索し、新しい時代に相応しい価値観や生き方を追求してゆくべきなのである。その点においては私もまったく同感だ。ところが安倍総理を初め日本の多くの政治家は未だに「成長教」に固執していて時代の変化の流れが見えていないようである。自民党大阪都構想を妨害(反対)するのも、「地方こそ成長の主役だ」などと言っておきながら、日本の国内に東京の「中心」と地方の「周辺」という構図をこれまで通りに存置させ続けなければ、資本主義の矛盾と限界が露呈するばかりで資本主義の延命の障害になると考えられたからだと私は思っている。