龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

社会変革への第一歩

週刊ポスト元少年Aの顔写真と実名を報道するというので、買って見てみれば、18年前の事件当時にフライデーに掲載された写真と出生名ではあるが、改名されて現在は使用されていない姓名であり、今更そういうものを公開する意味があるのかとその意図が分かり兼ねるところもあるが、とにかくも少年法の束縛から踏み出そうとしている姿勢においては、一歩の前進と評価はできる。殺人の経歴を有する33歳の大人が、自分のことを「元少年A」などと自称して本を出版したり、ホームページを開設して、事件を連想させるような不気味で奇怪な自作の作品を公開するなど、世の中を舐めているというか挑発しているようにも受け取られるものであるが、少年法表現の自由との兼合いにおいて、規制そのものは難しいところがある。ただ元少年Aの、いや週刊ポストが報じた出生名を使わせていただければ、東真一郎の現在の社会に対する姿勢は、一方的に東の道徳観念の欠如や少年院での矯正の失敗に帰せられる問題かと言えば、必ずしもそう断定できるものではなくて、むしろ社会の側の問題の方が大きいのではないかと思われる。たとえば『絶歌』という著書にしても、東は事前にいろいろな出版社に声を掛けていたようであり、週刊誌の記事内容によれば当人は幻冬舎から出せるつもりでいたのが、そうならなかったことを、裏切られてたと言っていたとのことである。そこから推測できることは(もしその報道内容が真実であればだが)、幻冬舎も当初は自社から出すことに色気を見せていたのだが、最終的には良識を働かせて取り止めの決断をしたということである。しかしこの「良識」なるものの基準、線引きというものは非常に難しいところがある。言うまでもなく我々の社会は資本主義社会であり、世間の批判があるにせよ、脱法行為でない限りは商品がたくさん売れて、儲かることが正義であるという考え方も成り立つのである。そしてその儲けることの資本主義的正義に向けて歯車が回転してゆくモチベーションは、曖昧模糊とした道徳観念などより遥かに強力であるということだ。とは言っても無理をして出版させてもそのことによって自社のイメージや品位が傷つけば、数十万部程度売れて得られる利益よりも目に見えないマイナスの方が大きいと判断されれば自粛されるであろうし、資金力が脆弱で必ず週十万部売れる見込みが捨てがたいと決断されれば出版が強行されることとなり、結局その判断の分岐そのものも社会道徳ではなくて総合的な損得勘定でしかないということである。非常に辛辣な指摘なので、世間の一般的な感覚からは受け取られないであろうが、我々の社会には道徳とか良識という皮を被ったものは無数にあるが、その中身の実態は道徳とか思いやりなどが入り込む余地は、皆無とは言えないにせよ、ほとんど存在しないのである。社会の木鐸を称する大手新聞社がそうではないか。消費税増税分の消費者への還元に弱者の立場を鑑みる姿勢を装いながら、その実は資本主義社会で最も強者の自分たちが軽減税率で免税されることを報道を通じて必死で誘導しているばかりである。基本的には資本主義社会のからくりは、道徳や良識の在り方も含めて弱肉強食であり、弱者や虐げられた人々に親切には作られていないものである。口先だけでは綺麗事や尤もらしい理想はいくらでも述べ立てられるが、社会のシステムはそういう次元とは全然、別の歯車で動いている。結局、人間はその大きな生産機械の奴隷でしかないのだ。奴隷でしかないゆえに、自らが奴隷である事実を隠そうとするはかりごとと知恵がそこにあるだけのことである。
たとえば元少年Aの東にしても、今の時点では到底考えられないことだが、たとえば将来的には、たけし軍団に入って知らぬ間にタレントになっていて、バラエティー番組に出演したりだとか、或いはTV放送局に識者扱いをされて、偉そうな顔で朝まで討論番組に出演して世相を論じていたりだとか、そういうことが絶対に有り得ないと言えるであろうか。考え難いことではあるが、いや考えたくないことではあるが、絶対にないとは言い切れないという感想が多くの人の心にはわだかまるのではなかろうか。我々の社会はそういう非常に危うい良識のバランスでかろうじて保たれている命綱のない綱渡りのようなものである。いつ足を踏み外して、地獄に転落するかわからないということである。元少年Aのような知的能力があれば、当たり前のようにその程度のことは見通せるであろう。つまり社会の側に本当の良心や道徳が存在しないのであるから自分の行為は正当化され得るのだと。具体的に言えば、本を出版することで被害者の遺族の心を傷つけるにしても、現実に社会に需要があって、本がたくさん売れることで出版社や書店などそれに関連する多くの人に喜んでもらえるのであれば、資本主義社会の価値観においては、ひっそりと沈黙を保っているだけよりもそちらの方がより正義というか貢献をしているのだという考え方も充分に成り立つということである。いかに非常識、不道徳であっても元少年Aの現在の行為は社会システムの一部である。よって私が何を言いたいのかと言えば、このような事態は市場原理に任せているだけでは絶対に解答のでない問題であるということ、そして何よりも市場原理と深く密接につながっているマスコミ道徳の操作に任せていては世の中が堕落する一方であるということ、政治もまた目を背けるばかりで積極的に介入する姿勢は持ち得ないであろうということであり、結局は我々市民のまっとうな良識というものを一部の怪しげな市民団体の占有物にさせることなく、社会意識の前面に押し出して、社会を具体的に変革させていく力を持ち得るように声を上げ、一歩一歩前進していく以外に道はないということなのだ。