龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

公明党の頓珍漢な痛税感

しかし公明党という政党は、やはりどこか変だな。何かが違う。一般の国民感覚とどこか微妙にずれているのだ。消費税軽減税率の問題でも、「『痛税感』の緩和にならない」(朝日新聞掲載、一公明党議員の発言)などと還付案に反対しているとのことである。確かにマイナンバーカードの提示が前提になった還付方式には問題があるが、なぜ消費複数税率が導入されなければならないのかの根拠が示されていない。痛税感と言うのであれば、国民感覚的には消費税そのものが痛税なのである。その自民党の消費税増税に賛成して決定させたのは、公明党ではないか。今更、何が痛税感だ。2%の増税で増す痛みの感覚などが今、議論の対象となるべきことなのか。乱暴な例えかも知れないが、消費税8%と10%の痛みの感覚の差など、誰かに8発殴られるのと10発殴られることの違いのようなものである。ほとんど一緒だ。人間の感覚はそのような微妙な痛みの差を鋭敏に区別できるようにはなっていない。むしろ8発殴られた時点で痛みの感覚は麻痺してしまっているので、その後の2発はほとんど痛みを感じなくなってしまっているものである。消費税増税も同じでそれが人間の実存的な真理である。
それに消費税2%ほどの差額など現実の消費行動の中でかき消されてしまう範囲内のものである。スーパーなどで売られている食品も日々、地域内の各店舗間で熾烈な価格競争が行われているのであるし、同一店舗であっても時間帯によって価格が変わったりもする。よって消費税そのものは当然、痛いけれど2%分の有無で痛みが大きく感じられたり、負担の軽減が感じられるという公明党の発想は、国民目線でまともなことを主張しているつもりなのであろうが、どこか頓珍漢なのである。自民党の消費税増税案に賛成して可決に導いた政党が言うべきセリフではない。我々国民が考慮すべき肝心なことは2%程度の痛税感ではなくて、その程度のもののために消費複数税率という日本全体でとんでもなく膨大なコストが掛かる制度が押し付けられ、そのために中・長期的には国民生活全体がしわ寄せを被らなければならない可能性が高いということなのである。前回か前々回にも述べたことであるが、コンビニという一業態だけで見ても消費複数税率の導入は膨大な費用と手間が掛かるものである。社会全体の費用対効果という観点から考えたときに2%分の痛税感の回避はそれらのトータルと引き合うものであろうか。
そういう問題ではないはずである。国民も全ての事業者も消費税増税は痛いけれど、決まってしまったことであれば2%分の痛感の違いなど取り立てて問題にはしていないのである。ただ唯一、例外があってそれが新聞社なのである。特に読売新聞社である。食品との合わせ技で新聞も増税免除の恩恵に与ろうとして、社会全体に余計なコストを押し付けようとしているのである。読売ははっきり言って社会の害悪であり、善良なる国民の敵だ。
それから欧州が軽減税率(複数税率)を採用しているから日本も見習うべきだとの読売的主張もおかしい。その程度の誘導に騙されてはならない。日本と欧米では国民性と経済取引の風習が大きく異なる。欧米人が初めて日本に旅行やビジネスでやってきて感嘆の声を上げることに、日本の電車やバスなどの交通機関のダイヤの正確さがあることはよく言われることである。日本という国は高度に情報が集積、管理されていることが特徴であって、それは交通機関のダイヤだけでなく、経済や販売においてもPOS端末などによって在庫や配送時間、或いは生鮮食料品などの鮮度までもが網羅され集中的に分析されると同時にコントロールがなされているのである。ヨーロッパの国は一部の先進企業はともかく全体的に見れば、もっと大雑把というか日本のように全体が1枚のICチップに集中されているような高度に凝縮したシステムにはなっていないのである。ゆったりとした緩やかな時間軸の中で、相対的に見れば割とアバウトな感覚で経済活動が行われているのだと考えられる。よってそういう風習、感覚の中では個々の取引ごとに税率や税額を記入するインボイス方式も比較的に抵抗感なく採用されて、馴染みやすいものであろうが、日本のような国でそれに近いやり方が果たして通用するであろうか。私はパニックになるだけだと思う。とにかく我々国民は日々のTVや新聞などの情報操作にやすやすと誘導されてはならない。誰も彼もが自分のことだけしか考えていない世の中にあって、報道までもが純粋に市民の立場に立った物の見方や考え方を都合よくかき消し、業界や自社の利益構造を打ち立てようと画策するばかりである。もちろん私の言っていることが市民的な立場の代弁になり得ているかどうかはわからないが、少なくとも私は自分を出発点として、自分の頭で考えようと努力はしている。それが生きるということではないかと私は思うのだが。人間は誘導されるだけの存在になった時には、政治的にはモノ化されているのである。