龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

大衆の大衆による大衆のための大衆批判

ベッキーかバッキーか知らないが、不倫でタレント活動休止とは。何と言うべきか、私もよくは知らないが、そういうイメージではなかったということが大きいのかも知れない。大衆のイメージを裏切った罪である。しかし総じて言えば、世間の反応はかなり厳しいようである。どこにでもある話なのに、なぜこれほどまでタレントの不品行に大衆は不寛容なのであろうか。私にとっては、タレントの不倫行為よりもそれに対する世間の反応の方が興味深い。それで思うのだが、恐らくベッキーの行為に対して批判的な大衆は、ベッキーと同じ年代の20歳代後半から30歳代くらいの比較的若い層に多いのではなかろうか。大体において若者の方が中年や高齢者よりも道徳的なのである。本当は道徳とは、若者の特権なのかも知れない。エネルギーが有り余って道徳から逸脱することもあり得るが、やはりその場合においても道徳律が基軸となっている。悲しいことに歳を取ると、道徳とは無関係に、似て非なるものである社会規範に縛られて機械的に生き長らえることとなる。時に道徳論を言葉の上だけで観念として弄ぶことがあっても、中身が真に道徳的ではないことに変わりはない。新聞の社説と同じである。但し、道徳と言えば少し型ぐるしい感じであり、適切ではないかも知れない。若年層の人々は、日々の生活の中で常に道徳を意識しながら生きている訳ではなかろう。もっと皮膚感覚的なものである。ではどのような表現が、最もぴったりするかと考えるに、潔癖なのである。潔癖な感覚が不倫や不正を許さないのである。では若年層を中心とする大衆の潔癖さとは、社会学的に分析すると一体どのような社会構造を反映して生み出されるところの共通した心理状態なのであろうか。
ここから先は私の独断である。独断であるから多少の偏見も入っているかも知れないが、それほどずれているとは思えない。先ず最初にテレビやCMでよく見かける国民全体に知名度が高いタレントは、世間一般の庶民的な感覚から見ればとんでもなく高額の収入を得ているという事実がある。タレントによって差は大きいので一概には言えないが、売れているブームの時には上場企業に勤めている会社員などの100倍以上の収入を稼いでいるということがざらにある世界である。たとえば個人名を出すのは悪いような気もするが、SMAPの中居君は、100億円の貯金を持っている可能性があるとする週刊誌の記事が掲載されていた。実際にはそこまでのことはないにせよ、そういう話しが現実味を帯びて噂されるほどの所得を毎年、得ていることは事実なのである。それではっきり言えば、私個人の考えであるが、そういう世の中の仕組みは間違っていると思うのである。別にSMAPや中居君が悪いとか間違っているというのではない。確かにそれなりに才能もあるのであろうし、日々の努力や苦労もあるとは思う。選り抜かれ、上り詰めた人間であることは間違いない。しかしである。100億円と言えば、実際にはその何分の一かであろうが、それでもちょっとした一流中堅企業の内部留保に相当するような額である。TVに露出し続けているだけで(コンサートやCDの売り上げもあるのでそれだけではないが)、そのような大金を一部の人間に与えるような社会システムは、不公平だとは言わないが、あまりに偏り過ぎているということができるのではないのか。極端な富の偏在を許容する社会システムである。何も私はタレントの収入だけのことであれば、自分とは無関係の世界のことであるからそれをどうのこうのとは思わない。しかしそうではなくて、事は日本の富の流れが電波などの情報を管理、操作している立場の者に集中しているということなのである。タレントの収入の問題ではなくて、政治とは適正な富の分配を司るところにあるのだから、そのように一部のマスコミやタレントに過度に富が集中し、圧倒的多数の庶民の生活レベルが不景気の中で次第に低下していくような社会システムが正しいのかどうかというきわめて政治的な問題なのである。資本主義社会だから当然だ、とかアメリカはもっと極端だなどと言ってしまえばそれまでだが、それだけで思考停止してしまってよいものだろうかと私は考えるのであるが。なぜならそのような社会で論じられる延々たる議論であるとか、底流で維持され続ける民主主義体制がどのような性質のものになるか想像するとわかることであろうが、結局のところは莫大な富を得ているマスコミなどの既得権益層が、その権益を低下させないように社会意識のパラダイムを死守しようと志向するものとなることは当然である。タレントなどは、いや本当は知識人も一緒であるが、その黄金のパラダイムの上で、踊ったり、歌ったり、喋ったりしている存在なのである。政治とは選挙の時に誰にどの党に投票するかということではなくて、そんなことは本当は何の意味もないことであって、我々の日常を取り巻く情報であるとか、気配のようなものまでもが、いやそれこそが実は政治の所産なのである。ところが普通の大衆は(私も充分に普通の大衆なので語弊があるかも知れないが)、そのようには考えない。TVタレントの存在性というものを社会システムとの対比において政治的に批評するような思考回路を持ち合わせていない。だから私のような論説内容は自然とシャットアウトされて、読まれもしないし、読まれても意識の中に入っていかない。誰も彼もが、タレントがTVに登場して面白いことを言ったり、白い歯を煌めかせてにこっと笑うだけで何十万円、何百万円ものギャラを獲得して保たれている社会システムを、日常風景のように所与のものとして無条件に受け入れ、愛してさえいるのだと思う。大衆が愛していると私が考える理由は、そういう偏向した不平等な社会システムを大衆は批判するどころか、むしろ積極的に守ろうとさえするように見えるからである。そこに夢があるからだとは私には思えない。なぜかはわからないが、ともかくも大衆意識と情報は、不即不離に一体なのである。ところがである。ベッキーのようにタレントが不倫をしたとなると、途端に大衆の反応は罪人を裁く裁判官のように厳しいものとなる。この現象をどのように解釈すべきであろうか。私が思うに、大衆は(特に対象人物と同年代の層は)タレントに、無意識の内に自分自身を反映させて受け入れているのではないのか。だからベッキーを批判する人は男性よりも同性の女性の方が圧倒的に多いであろうと推察する。大衆はタレントがTVに露出し続けるだけで一般人から見れば、信じられないような多額の報酬を得ていることには腹を立てたり、社会矛盾だと嘆いたりはしない。そういう社会システムの中で成功している人物を、その社会システムもろともに受け入れ、そして自分自身を無意識に反映させることで慰撫されているのだと思われる。だからこそそのタレントがちょっとした不正や不品行をなすと自分自身が侮辱されたり、貶められたような気分に陥って許せないのだと想像される。それが大衆的潔癖さの正体だと思われる。私の場合は反対である。タレントがTVに露出し続けるだけで億万長者になるような社会システムは間違っているから改められるべきだと考えるが、不倫をしたからと言って別に何とも思わない。タレントと自分は別人格である。その人の個人的な問題ではないか。社会的にどうのこうのと論ずべきことではないし、ましてやTV局に抗議の電話をしようなどとは思いも寄らない。スポンサーが怒るのは理解できるし、無理もないが、何で直接に利害関係のない大衆が怒るのか不思議ですらある。
これと似たようなケースで、何年か前にあったことだがあるお笑いタレントが(最近見かけなくなったので名前も出てこないが)、年収、数千万円もあるのに母親が生活保護を受けているということで世間から大変なバッシングをされたことがあった。これなどもお笑いのネタのような話しで、今こうやって文章に打っていても、思わず笑ってしまいそうになるのであるが、何がそんなに問題であったのであろうか。そのお笑いタレントの肩を持つつもりはないが、気の毒な気もする。はっきり言うが、仮に私がそのタレントの立場であっても同じことをしたであろうと思う。だって、そうであろう。母親と同居していて、母親が収入のある私の扶養に入っているのであれば生活費を払うのは当然であるし、生活保護など認められないであろうが、別居していて生活に困窮していて生活保護の申請が認められている状況であれば、「貰えるものは貰っておいた方がよい。」というのが普通かどうかはわからないが、私ならそう言うよ。それは道徳とかモラルの問題ではなく、純粋に政治の制度設計の問題ではないか。親子とは言え、金融機関の扱いにおいても完全にプライバシーの保護が徹底されていて本人確認がなければ預金を勝手に引き出したり、残高確認が出来ないのは当然のことであるし、一定額以上(現在は年間110万円以上)を贈与すれば、高率の贈与税が課せられることになる。年間110万円ということは月にすれば9万2千円ほどで、生活保護で貰える金額より少ないであろうから、当然そっちの方が得だということになる。実の親子でも別世帯、別家計であればそういう判断になるのは自然ではないのか。あのタレントはなぜそのような弁明を堂々とできなかったのであろうか。青白い顔で、震えるように、萎縮するばかりであったのはどうしてなのだろうと不思議に思う。その上にネットでは在日だからだ(本当に在日かどうかは知らないが)などと叩かれまくっていたのも、結果的に大衆の暴力的潔癖さの餌食になされていたのだと思えてならない。だが私はそのような大衆の群集的な反応を愚かであると考えている訳でもない。大衆が愚かであるなら、私もまた反転的な相において愚かである。大衆の群集的反応はある種の高度なバランス感覚の顕現のようにも見える。社会が根本的に不条理であることをよく弁えていて、その不条理を大きな心で許容すると同時にそこに一筋の道義、または道徳を見出そうと共鳴し合っているようにも感じられる。だから大衆の反応も決して操作されているばかりではなく、油断のならない真理を孕んでいるのである。