龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

『アトピー闘病記』の再開 その2

砂糖や甘い物を過剰に摂取すると、低血糖症となってイライラなどの気分障害が生じたり、うつ病になりやすいといわれている。糖分過剰でなぜ低血糖なのか、血糖値が上がるはずではないのかと疑問に思われるであろうが(私もそう思っていた)、そうではなくて、砂糖などの糖分を摂取すると急激に血糖値が上昇するために、すい臓がインスリンを分泌して血糖を減少させる働きをするのだが、過剰なインスリンの放出によって食後2~3時間ぐらい経つと血糖値が急降下してしまって、今度は副腎がアドレナリンを放出して血糖を上昇させなければならない必要性が生じる。低血糖症とはその繰り返しで、すい臓や副腎に過重な負担が掛かり疲弊することから生じる症状であり、低血糖症と糖尿病とは対極の病気ではなく、表裏一体の関係性にあるということである。また白砂糖のように化学的に精製されたショ糖は、体内で分解するのに多量のミネラルを要するために、その弊害によってさまざまな症状を発症させることがあるということだ。
私の場合で言えば、前回にも述べた通り、私は甘党ではないので若い女性のようにケーキやパフェ類を好物とするものではないが、それでも様々な加工食品には必ずと言っていいほどに砂糖や糖分は含まれているものである。よって普通にというか、糖分に対して無自覚に食生活をしていると知らぬ間に多量の糖分を日常生活において取り込んでしまっているのである。これでは歳を取って基礎代謝量が落ちてくると、肥満気味になってくることは当然なのである。肥満や成人病はともかく、私が一年ほど前に発症したパニック症をアトピーと糖分摂取との関連において考察すると、こういうことではないかと考えられる。アトピーを薬に頼らず自然治癒させていくプロセスにおいて、恐らく私の体内では多量のミネラルなどの栄養素が消化されていたのである。たとえばその当時の私の爪は、でこぼこしていたり皮膚と一体化したような貧弱なものでとても健康的と言えるようなものではなかったが、これもアトピーの影響でミネラルが不足していたことから爪にまで充分な栄養分が行き届いていなかったからである。そしてその爪のような状態が、私の脳内においても発生していたのだと考えられる。爪はまだ目に見えるからよいものの、脳の中は見えないから恐ろしい。私の脳内で不足していた物質は、恐らくはセロトニンだ。セロトニンとは、うつ病などとも密接に関係していると言われる神経伝達物質である。私はアトピー治癒のために、脳内でセロトニンが不足したためにパニック症を発症してしまったのだ。一時は心療内科に行くことも考えたが、結果的には行かなくて正解であった。下手に心療内科になど掛かってしまえば、そこでまた薬漬けにされてしまって、最悪の場合は自殺にまで追いやられる可能性も少なからずあったからである。幸運にも私は心療内科には行かずに、砂糖や糖分を止めることを選択することができた。そうしたおかげで私は第二の薬害を蒙ることなく、いとも簡単に、また余計な医療費も支払うことなくパニック症を消失させることが出来たのである。こういうことは、私は100%の確信において断言するが、皮膚科の病院においては絶対に教えてはくれないことである。皮膚科医がそういうことをわかっているのか、わかっていないのかはわからないが、たとえわかっているとしても親切に患者には教えてはくれないことなのである。よって自分で考えるしかないということだ。ある程度は自分で勉強して、自分自身で判断しなければ、医者だというだけで依存心を持って皮膚科に通っているとはっきり言うがろくな事にはならない。いやそれ以前に、魚の目やたこを削り取ってもらうようなことならともかくも、アトピーのような症状では皮膚科には行かない方がよいと思う。なぜならアトピーは本来は、放っておけば自然に治癒していく病気なのである。それが下手に皮膚科に通えば、ステロイドなどの薬によって免疫力を下げられてしまうので治癒に向かうどころか反対に悪化してしまうこととなるのだ。これは誰かが何らかの著書において主張しているようなことではなくて、私の経験上における揺るぎない真実である。ただ、まあこういうことは、私のような素人がいかに声を大にして訴えても中々信用してもらえないことではあると思う。それはそれで仕方ない。私にしても散々いろいろな皮膚科に行きまくってわかったことではあるし、それに所詮他人のことなどどうでもよいという気持ちも無きにしも非ずである。
それからパニック症について付け加えると、この症状は経験した人にしかわからないであろうが、ちょっと哲学的なところがあって、根底において死の観念と結びついているのである。具体的にわかりやすく説明することは難しいのであるが、死に対する恐怖というものとは少し異なる。何と言うのか、今、こうやって生きている生の側から死を思って怖いと言うのではなく、反対に、死の側から生きている自分と言う存在を考えて怖いというか、パニックになるのである。死の側においては肉体から遊離した視点というものがあって、その視点においては、神のようにというと語弊があるかも知れないが、いろいろなことが、過去も現在も、あちらもこちらも包み隠されることなく見通せるのである。この「見通せる」という言葉が重要なキーワードなのであるが、この生の世界においては肉体という遮蔽物に閉ざされていて、記憶も日々失われていくし、非常に限定された認識と理解の中でしか存在し得ないということ、言ってみれば当たり前のことなのであるが、その当たり前の事実がふいに恐怖となって襲ってくるのである。もちろんパニック症の症例として一般的に言える事かどうかはわからないが、私にとってはそのようなものであった。しかしそれではその症例によって肉体から離れたところの霊とか、あの世という神秘的な次元の存在性を措定し得るのかと言えば、現実には私のように砂糖を止めるとパニック症が雲散霧消のように治ってしまうのだから妙に即物的というか明快ではある。ならば死や死後と言う観念も、結局は、人間の脳内物質の働きに還元し得るものであるのかと言えば、個人的にはそうとも言い切れないような気がするのであるが、そのあたりのことは人知を超えていてとても私のような凡人の手に負える問題ではない。実際に死んでみなければわからないということなのであろう。と、あまりこういうことばかり考えていると、またパニック症に舞い戻ってしまいそうなのでこの辺にしておく。怖い、怖い、全てが怖い。