龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

せこくて卑小な生き物たち

人間とは、そもそもせこい生き物なのだと思う。野生の動物とは違って、貨幣経済や貯蓄などの観念に包まれながら日々を生きているからであろう。もちろん私も人間の一員であるのだから、多分にせこい面は内在しているのであろうが、しかし、どうであろうか。仮に私が政治家であるとすると、舛添都知事のように家族旅行や家族との飲食費に国民の税金である政治資金をくすねるようなことをするのかと自問するなら、まあ厳密に言うのであれば自分がその立場になって見なければわからないことではあるが、恐らくはしないと思われる。特に生活に困っている訳でもないのに、何でそのような真似をしなければならないのか訳がわからないものである。もう少しまともな人間だと思っていたが、見誤っていたのか、それとも前任の猪瀬といい、元々まともな人間であっても世界を代表するビッグシティー東京都知事になれば、まともな感覚は磨滅してしまうのであろうか。舛添に関して言えば参議院時代の不正が多いようであるが。そういう風に考えると、やはり石原慎太郎は、様々な批判や毀誉褒貶も多かったが、政治家と言うよりも一人の人間としてのレベルが猪瀬や舛添よりは、はるかに上回っていたのであろう。しかし、自民党小渕優子などもそうであったが、巨悪の収賄疑獄などよりも、家族サービスであるとか子供や家族などへの生活費に政治資金を費やすようなこのような政治家のせこい不正の方が、個人的には生理的に何倍もの嫌悪感を感じるものである。
政治家の政治と金の問題が、どういう心理構造から生み出されているかと考えるに、我々一般人との感覚との違いは、公私を明確に分離することが困難であると言う要因は大きいであろう。会社員や公務員のように平日の朝9時から夕方の6時までは拘束されていて、それ以外はプライベートであると線引きすることはできない。何か事件や問題があれば、休日であろうと深夜であっても即座に対応しなければならない。それゆえに政治家は、何をしているか何のためにかではなくて、政治家としての身分そのものに公的な政治性があると考える傾向が高いゆえに、公私混同を自己正当化することになるのであろう。だから政治家の身分がある間は、政治資金をふんだんに使って高級料理を食べ回ったり、高級ホテルや飛行機のファーストクラスを必要以上利用しなければ、損だという感覚にもなるのであろう。本当に唾棄すべきせこさ、卑小さである。そういう連中は政治家として以前に、一人の人間としてこの世に生きている値打ちが薄いようにすら感じられる。とっとと捕まえて死刑を適用できないものであろうか。私は死刑制度そのものには反対であるが、政治家の不正にだけは死刑を適用すべきであると考える。それでは法の下の平等に反するではないかと言われるかも知れないが、法律を作る立場の人間と、法律に裁かれる一般市民との間には厳然とした差があるものである。政治とか権力というものは、どのような巨悪であっても時と場合に応じて正当化され得るものである。我々一般人が二人以上を殺害すれば死刑に処せられるが、戦争で数十万人を殺害しても正義になる。もちろんこれは極論ではあるが、政治家と一般人との違いというものは法の下に平等であっても、そういうケースを想定して初めて見出されるものなのである。あえて戦争まで持ち出さなくとも、政治や権力は各機関が結託すれば殺人などの犯罪行為を簡単にもみ消すことも可能なのである。可能であるという以上に、今の世界は日本も含めてそのような不正に満ち溢れている。ニューヨークのジュリアーニ元市長が街を浄化するために応用した割れ窓理論は、政治による大衆統治であったが、我々一般市民が今、腐敗した政治家の感覚を浄化させるためには、市民が政治を監視し処罰する割れ窓理論が必要とされているのだと考えられる。そういう意味で舛添的なせこい不正は、死刑にも相当する。とはいっても政治家がそのような法案を認める訳がないが。