龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

為替介入とドルの幻想

7月か。どうりで暑いはずだな。脱水症状にならないように水分補給しながら、我が日常の雑感を述べるとするか。
為替についてだが、少し古いが“ミスター円”と呼ばれた榊原英資氏の『為替がわかれば世界がわかる』(文春文庫)を読んでいて思ったことだが、榊原氏が国際金融局長を務めていた95年ごろや、財務官であった97~99年の当時、つまり90年代はごく普通に頻繁に政府、日銀による為替介入が実施されていたんだな。それがどういう訳か、近年においては最近の麻生財務大臣の発言を見てもわかる通り、口先介入ばかりで実際には皆無に近い状態になっている。直近では2011年の10月に覆面介入が行われたようだが、それ以降は55か月にも及んで介入実績は0である。榊原氏が活躍していた20年前と比較すれば、今の時代の方がはるかに為替の変動が過激かつ破壊的になり、一国の国家運営に及ぼす影響が大きくなっているにも関わらずである。この状況の変化をどのように読み解くべきであろうか。以後に述べることは、あくまで私個人の見方であり、榊原氏の著書の内容とは何の関連もないことをお断りしておくが、この10年ほど日本政府による為替介入実績が極端に少なくなってきていることは、言うまでもないことだとは思うが、日本の為替政策における考え方や手法の変遷を示すものではなく、むしろ日本は介入したくてむずむずしているのであるが、アメリカの姿勢が協調にせよ単独にしろ、許さなくなってきているのである。情けないことなので、本当はあまり触れたくはないのだが、日本はアメリカの容認がなければ、20年前はともかくも今日では、為替介入を実施することは不可能なのである。これは自主権の認められた独立国家の在り方としてどうなのかと思われるのであるが、そのようなことは今更、嘆いたところで何がどうなるものでもない。しかし国家にとっては、健全な経済活動に支障がないように通貨価値の安定性を許容範囲に収めるよう図ることは、当然の主権事項であって、その主権が制約されていて自国通貨価値の維持にすら国権の発動が許されていないような国が、憲法9条の解釈を変えたぐらいのことで明日にでも戦争に邁進するかのような論調は無茶苦茶であって、その言説の歪みこそが日本の戦後民主主義の本質なのである。憲法の問題は本論とは外れることなのでこれ以上は述べないが、それではなぜアメリカ政府は中央銀行の為替介入に対して厳しい姿勢を見せるように変化したのであろうか。90年代後半はITバブルによる好景気でアメリカの財政は飛躍的に改善していたということもあって、当時はアメリカ政府にとってドルの安定は景気を維持させる上で優先順位の高い政治事項であったのだと考えられる。それゆえに極端なドル安や円高は、貿易収支を云々する以上にアメリカの全体的な国益を損なうものであると見做され、榊原氏がやっていたように日米の協調介入が図られていたのであろうと考えられる。しかしその後の今日までにおける20年間は、アメリカはイラク戦争における戦費の調達で莫大なドルを追加発行せざるを得なくなった。本来であればアメリカのGDPとのバランスから考えれば、アメリカのGDPはほぼ一定なのであるから、ドルは超インフレになって暴落するはずなのであるが、そのドルを日本などの同盟国や、中国のような社会主義国までもが毎年、米国債を購入し保有し続けるという方法で信用保証することによって底辺から支えているのである。それはアメリカの都合でもあるが、ドルが世界の基軸通貨であることから世界経済を混乱させないためにやむを得ない面も確かにあった。ドルと戦争や世界経済は全て結びついているのである。それでこの20年ほどの間にドルは、戦費調達やヘッジファンドなどによる金融工学的な操作による桁違いの需要増によって爆発的な規模で信用創造され、2008年のリーマンショックによって一時的に収縮を見たものの、未だに実体経済をはるかに超過した天文学的なドルが世界中の金融資本や超富裕層に偏在することによって資本主義の格差構造を強化しているのである。拡大したドルは各国中央銀行米国債や外貨準備という姿で大人しく収まっているだけではなく、一部は売却され市場を流通するのは当然である。ドルは一歩間違えれば、常に暴落する危険性と隣り合わせになっている通貨であり、今回のイギリスのEU離脱のように大きな政治変動が起きれば、行き場を失ったドルと言う架空の価値は一気に堤防を決壊した奔流のように円に押し寄せてくることとなるのである。それではなぜ今、アメリカ当局は日本に為替介入をさせないように威圧的な態度で監視しているのかと言えば、日本にちょこまかとドル買い、円売りの介入を20年前と同じような調子で実施されていると、為替安定の利益以上にドルと言う通貨が内在する本質的な薄っぺらさやじゃぶじゃぶと行き場を失って膨大な量のドルが滞留していることの実態が露呈してしまって、ドルの世界的な信用不安が発生する不利益の方がはるかに大きいからである。それゆえにアメリカの財務官は、為替の変動は秩序的な動きであり、政府による恣意的な介入はなされるべきではないと牽制することによって、ドルの基軸通貨としての価値を維持しようとしているのである。ドル安であるのにドルの価値を守るとは矛盾しているように思われるかもしれないが、為替変動が秩序的であるか無秩序であるかが重要であるということなのだ。だからアメリカとしては、為替の動きは秩序的であるから介入はするなと言わざるを得ないということなのである。それから今ドル不足が報道されているが、正確に言えばドルは不足しているのではなくじゃぶじゃぶと余っているのだと考えられる。総量的には余っているのだが、一部の資本や金融機関などに偏在していて、資本主義市場の隅々まで行き亘っているのではない状態であったのが、ユーロの対ドルにおける地位の低下によって全体的に需要が増えてきていると見られる。しかし需要の増大は、必ずしも信用の高まりを意味するものではないということだ。むしろドルの需要は増えても、信用は低下してきているのである。この需要(供給)増と信用低下という相反する要素において、アメリカは常にバランスを取りながらドルの通貨政策を運営していかなければならない宿命にあると言える。世界中の金が円にリスクオフで流入してくる事態をドルの信用低下と見做させないこともアメリカにとっては表層的には重要であるが、内実的にドルの価値を維持させようとする力学もアメリカには存在する。つまりドル安が続けば、必ずどこかの時点で反転したように、強いドルこそがアメリカの国益だという声が大きくなっていくであろうということだ。もうそろそろその兆候が現れ始めているような気もする。ドルの内実的な価値を高める方法は利上げ以外にないものである。じゃぶじゃぶと洪水のように溢れたドルの偏在性と恒常的なインフレ要因を隠しつつ、適宜、利上げを実施することでドルの価値(幻想)を維持してゆくことがアメリカの政治である。ただ前回にも述べた通り、アメリカの覇権主義は20年前に比べれば明らかに後退しているであろうし、年内に大統領選挙を控えて国内志向が高まっている背景もあり、目先は強いドルよりも国内の雇用であるとか、貿易収支を改善させることの要望の方が大きいのであろう。ドル円の相場が102円台後半でこう着状態のように留まってしまってしまっているのは、そういうドルを取り巻く政治的な要因全てを織り込んだ均衡点であるように見える。