龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

乙武氏の離婚について

有名人であっても一個人のプライバシーに関することを批評の対象にすることは、私の主義にも趣味にも合わない事であるが、今回の件については思うところが大であり、ちょっと述べさせていただくことにする。
乙武氏の離婚についてであるが、報道されてきたことの経過上、止むを得ないことではあろうが、そもそも周りが乙武氏を持ち上げ過ぎてきたことが問題として大きいと感じられる。私は読んでいないが『五体不満足』の著書が大ベストセラーになったことから、国民から広く愛され、名声を博することはまあ当然であるにしても、その後のタレント活動であるとか、スポーツライターになったかと思えば、教職員や教育委員としても活動し、挙句には自民党公認参議院候補として擁立などと、やり過ぎという印象が強かった。もちろん乙武氏のように身体の不自由な人が、嫌味で言う訳ではないが、社会的に八面六臂の大活躍をすることは、同じような障害を持って生きている人たちの人生に対して明るい希望を与えることになるので良いことだとは思う。しかしそういう身体障害者の希望の星としての象徴性を、乙武氏一人に一身に背負わせて、実力以上の役割であるとか使命を付与することは、乙武氏という人間の中身ではなくて、表面的なイメージや知名度の政治利用に過ぎなかったのではないのか。そこには何か良識的な節度を越えた偽善性であるとか、欺瞞が感じられて、元々ある種の危うさが漂っていたように思われるものである。そのように作為的に作られた一個人の存在感やイメージ性が、本当に社会全体の障害者にとって勇気や希望をもたらしていたかと言えば私には疑問であって、むしろ乙武氏一人だけを散々、持ち上げもてはやしていればそれで社会的な正義が果たされているかのような自己満足が乙武氏を利用する側にあったのではないのか。
自分を保てなくなった乙武氏自身にも問題と責任があるとする見方も当然、あるであろうが、現実的にはあれほどの状況が継続すると本当の自分を見失っても仕方ない部分も大きいように感じられる。不倫の問題にしても、立ち入ったことなのでよくはわからないが、そこには普通の男女関係の情愛だけではなく、女性の側にボランティア的な気持ちが混じっていてもおかしくはないし、もしそうであれば不倫相手の女性は、乙武氏の身の回りを個人的にサポートすることによって普遍的な社会貢献をしている気持ちになっていたはずである。そしてそういうある種の特殊な関係性というものは、自然発生的に生まれてきたものであるというよりも、マスコミなどの乙武氏への政治利用に付随した性質のものであるとも言える。夫婦関係そのものも世間一般の関係と異なる感覚が含まれていたとしてもそれは当然のことであり、乙武氏の不倫行為に対して、仮に妻が内心では自分以外に乙武氏の面倒を見てくれる女性に対して感謝の気持ちを抱いていたり、そういうことも含めて自分自身にも問題があったと考えたとしても、ある意味において止むを得ない部分が大きい。それをである。それまで散々、乙武氏の存在感をマスコミや政治までもがフルに活用してきておいて、不倫と言う、それも実際は単なる世話かモラルの逸脱なのかよくわからないプライバシーを暴き立てて、世間一般の価値観や定規を当て嵌め、一気に奈落の底に引きずり落とすようなやり口は、マスコミ的といえばそれまでであるが、ちょっとやり過ぎではないのか。そこにこそ社会的な節度とモラルが逸脱していると見れるのではないのか。不倫行為と比べてどちらが逸脱の度合いが大きいのかは何とも言えないが。