龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

高齢者運転の危険性について

87歳か。87歳で車運転したら、あかんやろ。登下校の列に車が突っ込んで、小さな子供が亡くなるという事故が繰り返されるが、個人的にはこういう報道を見聞きすることが一番、遣り切れない思いだ。何とかならないものか。
私の父は現在82歳であるが、2年ほど前までは車の運転をしていた。だがアクセルとブレーキを踏み間違えることが、私が知る限りでも2回ほどあって、幸い何れも事故には至らなかったが、2回目の時にはどこからか車で戻ってきた父が興奮した面持ちで「ああ、危なかった。アクセルとブレーキ踏み間違えて、もうちょっとでぶつけるところやった。間一髪で奇跡的にかわすことができた。これはきっとご先祖が守ってくれたんや。有難いことや。」と言うのであった。因みに父は毎朝、仏壇の前でお経を唱えながら拝む習慣を大切にしている。それで私が心配になって、「そういう問題と違うで。先祖が守ってくれたかどうかなんて、どうでもよいことや。とにかくもう車の運転は止めたほうがいい。そやないとその内に取り返しのつかない事故を起こすことになる」と言うのに、すぐには私の忠告に従わず、その後も暫くの間は、車を運転して一人で墓参りに行ったりしているようであった。ある日、墓参りから帰ってきた父が言うには、「あの車は故障してる。アクセル踏んでるのに、スピードが出えへん。坂道で止まりそうになった。」と妙なことを言うので、私が乗ってみると何の異常もないのであった。父は元々足が悪くて、特に歳を取ってきてからは筋力の衰えによりアクセルのペダルをきちんと踏めていないか、変な踏み方をしていると思われた。それで私とすればとにかく、もう車の運転は止めろと言う他はなく、いくら私がそう言っても父は、気を付けて運転していればまだ大丈夫みたいなことを言っていたが、しばらくすると自分でももう車の運転はしない方がよいとようやく納得したのであろうか、ある日、運転は止めると宣言し、自分で地元の警察署に問い合わせをして、免許証の自主返納の手続きをしたようであった。それが当たり前のことなのである。車を運転している限り、自分のハンドル捌きやアクセル、ブレーキ操作が全てであって、高齢であるからと言って誰も手助けしてくれないし、車は操作された通りにしか動けないのである。今回、運転ミスで小学校1年生の男の子を死なせてしまった87歳の男性も、おそらくこれまでの運転で何度も人や車にぶつけそうな危うい目に遭ってきているはずである。そしてそのような危険極まりない綱渡りのような運転を続けてきた経過の中で、私の父のように自分で運転を止める決断に至ることもなく、また私がそうしていたように身の回りに運転を止めるよう忠告してくれる人間も恐らくはいなかったのであろう。そういうことがこのような悲劇を生む原因となっているのである。私の父ではないが、一度や二度はご先祖様か神様が、事故を奇跡的に回避する力を与えてくれるかも知れないが、いつまでもということは到底、無理である。所詮、この世に起こる出来事は、結局はご先祖でも神様でもなく今、生きている人間が作り出している現実なのであって、それに対して当人が責任を取らなければならないものである。よってアクセルとブレーキを踏み間違えるようになれば、法律がどうであろうと自分で免許証を返納しなければならない。それにいかに今の時代が高齢化社会で寿命も伸びてきていると言っても、80歳以上の年齢になれば、責任能力がないとは言わないが著しく低下していることは事実である。87歳の老人を刑務所に放り込んだところで何がどうなる訳でもないし、またそのような年齢の人間に反省させても意味がないではないか。損害賠償を請求するにしても金を持っているなら支払えるが、持っていないのであれば、今から働いて金を作ることなど不可能である。高齢者運転だけの問題ではないが、交通弱者としていつも小さな子供が犠牲になることがあまりにも痛ましい。そういうことを総合的に考えると70歳はともかく75歳以上の免許更新の在り方は再考した方がよいのではないか。日進月歩で進化する車の安全運転技術との兼ね合いを考える必要性もあるにせよだ。それと合わせて言えば何度も人身事故や危険運転を繰り返しているような人間には(実際にその手のタイプのドライバーは一定数の割合で存在するはずだ)、免許を更新させる必要性などないのではないのか。生涯に亘って免許を剥奪すべきであると私は思う。