龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

日本のオワコン世相について

はあ・・・。男性の更年期障害という訳でもなかろうが、何をするのも面倒くさい。何を言ったところで、何がどうなるものでもないし、自己満足の自己完結に過ぎないものであれば石のようにじっと沈黙して、密やかに生きている方がましである。ましであるというよりも、むしろそれが私の本性であるならば(あるような気がするので)、何事かを主張するという志向性は、私にとっては非自己に分類されるものであるか、自分自身の影のようなものである。影の本質は、光に照らされると消えてしまうことにある。
こういう消極的な考えに支配されるということは、男性ホルモンのテストステロンの分量が低下しているゆえであろうか。新興宗教の教祖であれば、悪霊に取り付かれているせいだと言うであろうが。別に何だっていいのだけれど。
さて仏教や信仰について述べようと思って、縷々文章にしたため始めてみたものの、面倒くさくなってきたので止めにする。誰が何を信じようと私には関係のないことだ。それで今回の話題は、私とほぼ同じ年齢である脳科学者の茂木健一郎氏が、日本のお笑い芸人の芸風を、権力者への批判精神が皆無の「オワコン」であると発言して、芸能界多数から激しく反論され、攻撃を受けていることについてである。私はオワコンという言葉が妙に気に入ってしまった。茂木氏については、これまで学者なのかタレントなのか、正体の境界がよくわからない軟弱な男のように思えて、正直に言ってあまりよい印象は持てなかったのであるが、このオワコン発言で私の見方は変化した。そして私の血中テストステロン濃度も若干上昇したようなので、こうやって記事を記すこととなった。芸人やタレントが、寄ってたかって貶そうが、嫌味を言おうが、茂木氏の言うことは本当のことだから仕方ない。多数で一人の真実吐露を攻撃する姿勢が、オワコンのオワコンたる証であるように感じられる。日本のお笑いの芸風は、日本だけではないのかも知れないが、政治性をことごとく洗い流して、剥ぎ取った残り滓のような性質に思えてならない。だから日常生活の中の空気感であるとか、勘違いや、身の回りの先輩と後輩、親子、教師と生徒などの非政治的なヒエラルキーが、お笑いの材料にされることがほとんどである。それがダメだとか面白くないというつもりはないが、何というか、総括的に言って、笑いが社会に真正面から対峙できていないんだよな。むしろ真正面から向き合うことが、暗黙のタブーとして避けられているんだよ。もちろんそこには放送局や政治の管理システムやコードというものが、あるのだろうけれど。しかし誤解のないように説明させてもらうが、お笑いの中の政治性というものは、何もネタの中で具体的に政治についてコメントしたり、仄めかすことではない。社会風刺というものとも少し異なると思う。むしろ、そういう風に考えてしまう感性がオワコンなのだと思える。たとえば具体的に名前を出させてもらえば、爆笑問題の太田という芸人は、たまに政治についてコメントすることもあるようだが、私はそこに政治性というものを何ら感じ取ることができない。それはお笑いでも政治批判でも何でもないと思う。そういうことではなくて、前回にも少し述べたけれど、藤山寛美さんが喜劇の中で一気にまくしたてるようにセリフを述べた後に、観客に見せた表情というものは、政治については何一つ触れていなくとも、社会全体に対して真正面からきちんと対峙しているゆえに、政治的であるのだと思えるということである。役者をしている時以外の寛美さんが政治について何もコメントしていなくとも、劇中の一瞬の表情そのものが政治性を内在していて、それでいて面白いのである。チャップリンも同じでヒトラーの風刺をするから政治的なのではなくて、お笑いの本質が社会や世界に真正面から向き合っていて、尚且つ、そこに豊かな感受性が共存しているということである。バスター・キートンの能面のような無表情にも同様の性質があったのかも知れない。それらに類するものが今の日本には何もないということを茂木さんは言わんとしていたのではなかろうか。そうであれば、全く同感である。大御所のビートたけしさんについても、誰もが賞賛の言葉しか発しないが、私は別に批判するつもりもないが、たけしさんの芸風やコメントが真に日本社会に対峙しているとも、またお笑いに昇華できているとも思えない。むしろどちらかと言えば、巧妙に目を背けているように見える。テレビに出続けていればそれでよいのであろうという風にも感じられる。たけしさんの映画についても、TVに出演し続けることで稼いだ多額の金で制作しているせいか、どうもTVの日常的な匂いが強く感じられてあまり好きになれない。とにかく日本のお笑いや芸能界は、まさに茂木氏が言う通りに芸能村なのであって、そこから決して脱却できないし、脱却しようとする姿勢を見せれば村八分に遭うのかも知れない。しかしオワコンというキーワードで言えば、お笑いだけがオワコンなのではなくて、もっと言えば小説なども終わっているのだと言える。本が売れなくなってきているのは活字離れではなくて、小説が社会や世界にきちんと対峙できなくなってきているからであろう。差別や貧困をテーマにしていればそう出来ていると勘違いしてしまうことが、時代錯誤というか、感覚的に古いように感じられる。そういうことを評論家の江藤淳さんは、今から30年以上も前に指摘していたのだから、その時代には日本社会にきちんと向き合う気概のある人も存在したということであろうが、今は全てがオワコンである。危険なコメントをしてしまった茂木氏の運命や、いかにである。