龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

繰り返される政治とマスコミの手口

思想とかイデオロギーの如何に関わらず、ある一定の意識があれば自ずと見えてくるということは多くあるのであって、たとえば今、報道の紙面や空間を賑わせている問題に稲田防衛相の発言がある。東京都議選の応援演説で、「防衛省自衛隊としても(自民党候補者への投票を)お願いしたい」と言ったことが、中立であるべき行政府の政治利用にあたるという論旨である。確かに厳密に見ればその通りかも知れないが、稲田氏の発言の文脈から考えれば、防衛省自衛隊の存在を政治利用しようとしたというよりは、言葉の綾の問題であって、そもそもそのような言い回しが票に結び付くとも考え難いものである。東京都の有権者はそこまで頭が悪いのであろうか。何が言いたいのかと言えば、このような言葉の綾を報道が問題として大きく取り上げ、野党もこぞって追及し、安倍総理も国民に謝罪して見せる、そういう一連の演出によって、日本の民主政治は正常かつ健全に機能しているかのような印象を国民に抱かせることが狙いなのであって、一歩離れて見れば、政治とマスコミが勝手に騒いでいるだけで、そこに実質的には国民の声も皮膚感覚も何ら反映していないでしょう。これが日本の政治の実態なのであって、政治とマスコミが国民の目を眩ませる手口はパターン化しているので、一人でも多くの国民が日々の生活の中にあっても情報リテラシーとして学習していただきたいと思う。この手口は、軽微な情報を大きく見せ、国民の注意や関心を引き寄せることによって、より重大な問題を隠ぺいしたり、見え難くしたり、或いは時系列の変化の中で風化させていく操作手法である。言葉の綾がそこまで問題にされなければならないのであれば、そこまで日本の遵法精神が潔癖であるのなら、法律を作る立場の最高責任者である安倍総理か、その意向を受けた側近者が、こともあろうにレイプ犯罪をもみ消したであろう疑惑については、なぜマスコミや野党は追及しようとしないのかということである。皆さんは、いかがお考えになられるであろうか。こういうことを一つ一つ、解決していかなければ、どこまでいっても、何をしても、日本の民主主義など空疎以外の何物でもないのであって、政治不信以前に元々政治が存在していないということでしかないのである。あるのは政治と情報が結託したところの、国民操作だけである。こういう現実に立ち向かうには国民がもっと本質を見抜く知性と意識を獲得して、そのような有権者を馬鹿にしたような手口を無効化させていく以外に道はないものである。政治とマスコミが、何度も繰り返し行っていることは、使い古された「手品」のようなものであって、国民という観客が素直に騙されている限りはなくならないのである。私がやろうとしていることは、その手品のタネを暴くことで、手品に魅了されているような人々にとっては白けたことを言うなと受けが悪いというか、無視されることが多いのもそのためだと思われるが、全体意識に深く関わっていることに対して覚醒を促すということは、そもそもそういうことだと考えられるので、まあ孤独な作業ではあるがやむを得ない。でもこういう場面を想像していただきたいと思うのだ。手品師が会場に100人の観客を集めて、手品を披露している。もちろん手品師は政治とマスコミのことで、観客とは大衆のことである。100人の内、1人の観客だけが(まあ言ってみれば私のことだが)その手品のタネを知っていて、会場内で声を上げてばらしてしまえば、手品師だけでなく観客からも邪魔者扱いされて、係員に強制的に退出させられることになるかも知れない。それでそういうことにならないために、仮に私が大人しく他の99人に紛れて黙っていたとしても、手品師がタネを知っている観客が僅か一人でも会場内に存在することを知ってしまえば、その手品は実演し難くなるはずなのである。一人であれば何とかなっても、それが二人、三人と増えていけば、その少数者の存在感の方が他の圧倒的多数よりもはるかに大きくなるであろうから、手品そのものは完全に無効化されてしまうものである。私がやろうとしているのはそういうことなのだ。皆様方にあっても、特に若い人に希望するが、是非、会場内で手品のタネを見抜く二人目、三人目へと続いていただきたい。そうして政治の主権を市民の側に綱引きのように引き寄せていくのだ。