龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

世相と時代を映す鏡

裁判の判決は、時代を映す一つの鏡である。それゆえに高須クリニックが、名誉棄損で大西健介議員と民進党を提訴した裁判の判決がどうなるのかは、個人的に非常に興味がある。前回にも述べたように私は、このケースでは到底、名誉棄損が成立する訳がないと考えている。私は弁護士でも法律関係者でもないので、素人の考えだと言われればそれまでだが、この程度のことでいやしくも政治家の自由闊達な議論なり発言に足枷を科せられなければならないのであれば、世も末であり、まさに裁判官の良識が問われている事案だと思われる。そうは言っても、裁判官も様々であり、必ずしも法理の原則に則った常識的な判決がくだされるものでもなく、大衆迎合的なポピュリズムの方向に軸足が移動したとしか思えないような見解が採用されることも間々あり得るのであり、そういう意味でも今の世相の本質を見極める一つの材料として、興味深いと言える。
しかし、どうなのだろうか。「陳腐」というワードが名誉棄損だということだが、字義的に考えても、確かに陳腐という言葉は、否定的な意味合いで使われることが多いが、その意味は、ありふれていて、古臭いということである。我々日本人はもっと母国語の日本語というものを深くかみしめて精神性を高めていかなければならないと私は思うのだが、たとえ陳腐であっても、すなわちありふれていて、古臭くとも素晴らしいものは身の回りにはいくらでもある。反対に斬新であっても、単に表面的に奇を衒っているだけで、中身のないものも世の中にはごみのように溢れている。だから言葉の意味を深く捉えれば、陳腐だから価値がないという考え方そのものが陳腐であるとも言えるのであって、それが名誉棄損に該当するかといえば非常に疑問である。とにかくも大西議員や民進党の弁護をするつもりは毛頭ないが、大西氏の発言の趣旨は、陳腐という言葉で高須クリニックの価値を貶めようとしたものではなくて、企業名を連呼するだけのCMは患者が医療機関を選ぶ上で有用でないということを強調するために、「イエス○○のように」と例示したのであって、政治家が消費者に対する業界の問題性を議論する場で、個別の広告について批判してはいけないのであれば、その業界全体の問題を追及することが許されないということと同義であるとしか私には思えない。広告の技法を問題視したからと言って、その企業に問題性があることを認めたとする断定は、飛躍がありすぎるものである。広告の内容や在り方については、消費者にも様々な意見があるであろうし、私も個人的にはTVCMは僅か15秒ほどの限られた時間の制約の中で全てを説明したりPRすることなど土台、不可能であるのだから、企業名を連呼するだけのCMがあってもそれ自体にさほど問題があるとは思えないが、要は施術の現場でどれだけ丁寧に説明がなされていて、患者との間にコンセンサスが得られているかということであって、それはきちんと反論なり議論ができることだから、陳腐イコール名誉棄損で提訴というのはあまりにも短絡的であり内容が乏しいとしか思えない。これでは訴訟の戦術で、政治の業界に対する干渉なり、問題視する議論を排除しているように見えてしまうものである。この一件だけではないが、日本と言う国は一応は言論の自由が保障されているということになっているのだが、何に付け言ってはいけないことが多過ぎるのである。政治につけ報道につけ、業界の悪口を言ってはいけない、隣国の批判をしてはいけない、これを言えば差別だとか、セクハラだとか、何の悪意もない正統的な言論までが制約されて、雁字搦めの身動きできない状態になされて、そのしわ寄せが全て文句の言えない絶対的な弱者である国民に流れ着くような構造に作られてしまっているのである。この今にも窒息しそうな世の中に生きる我々日本人は、まるで酸素の欠乏した水槽の水の中で、何とか生き長らえている金魚のようなものである。金魚には本物の民主主義など不要ということなのであろうか。