龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

正論の意義について

正論を主張すると、大体において周りを白けさせるものである。その反応は、「それは確かに正論だけれど・・・」のようなもので、あなたの言うことは確かに正論だけど、現実は正論通りにはいかないものなのですよ、ということを言外に匂わせているものである。だから何となく場が白けるということになる。私もこれまでの人生で、そういう類のことを何度となく言われているので、ある時期から実生活においては正論は言わないことにしている。小さな狭い生活の範囲内で正論を吐いたところで、人間関係が困難になるだけのことで、何のメリットもないことを痛感したからである。だがこのブログの記事は異なる。日本を少しでも前進させるために、政治や報道や国民意識について記事を作成しているのだから、正論を言わずして一体何を言えばよいのかということである。しかしこういう風に日々、日本の現状を憂いながら文章を綴っているといろいろなことがわかってくるのだが、日本のマスコミや政治も、そして大衆世論も正論を考える上での基本的な思考能力や洞察力が全体として枯渇してしまっているのである。私が実生活で正論を言わなくなったのと同じような理由で、国益や日本人の生命を守るための正論が、長年に亘って忌避され続けてきたがゆえに、正論云々よりも、政治家やマスコミの人間すらが根本的に正しく物事を考えたり、見極めたりすることが出来なくなってしまっているのではないかと私は本気で危惧しているものである。そこにあるのは日本と言う小さな村社会における「調整の論理」だけなのである。調整ばかりで全体の体制や支配が揺るがないことばかりに注意が払われ過ぎているので、正論の価値や存在意義がほとんど消滅寸前のような有様である。本来であれば国民の世論がそういう潮流に対して、抵抗なり反発しなければならないものであるが、マスコミがそのような動向を無視するということもあり、もう既に調整的な情報操作の常態的な環境の中で、正論を述べることがあたかもタブーであるかのように国民全体が馴致されてしまっているようにさえ見える。私とて正論を述べた所で、現実が正論通りにいかないことぐらいは、百も承知しているつもりである。現実が正論通りにいくか、いかないかという問題ではなくて、真正面からきちんと正論を考える能力があるかどうか、そしてその正論を臆することなく主張する気概が社会に残っているかどうかが問題なのである。そういう意味では日本の言論や民主主義はもうほとんど死に絶えてしまっていると言っても、過言でない状態にあるような気もする。取り敢えず生きていればよいのか、とりあえずこの世に存在していれば、文句を言う必要性もないということなのであろうか。まあ平和であることと、生命が保たれていることの重要性はわかるのであるが。
正論を考える能力は、スポーツや運動で言えば、体の重心軸のようなものだと思われる。この重心軸がしっかりと定まっていないと、適当にバットを振ってたまたまボールに当たっても、ヒットになる強い打球にはならない。サッカーで言えば、ゴール前で倒れずに体のバランスを保ってシュートすることはできない。ボクシングだと一撃で相手をノックアウトする強打を放つことは不可能だ。ゴルフの松山英樹選手のスイングを見ていると頭の頂点から両足の中点に下した垂線の軸がピタッと定まっていて微動だにしないものであり、見ていてとても美しいものである。私はゴルフの経験はないので素人感想だが、あのような不動の重心軸が、世界に通じる崩れにくいスコアの安定性を生み出しているのであろうと思われる。思想や精神も身体の重心軸と同じである。中心や重心が定まっていなければ、ぐらぐらと不安定に揺らいでいるだけで、人間の思考能力や精神性は低下する一方だと思われる。調整の論理は筋道(中心)なき虚飾と虚構の統制に過ぎない。そのようなことばかりが何十年も繰り返されていると国力は衰え、権力が堕落するのも当然である。何よりもそのことについての自覚症状を政治や報道が持てなくなってきていることの問題は非常に深刻なのではなかろうか。その一例として前回、前々回に述べさせていただいた高須クリニック民進党への名誉棄損提訴についても、どちらの主張が正しくて、どちらが間違っているかなどは日本全体の政治や民主主義の成熟の観点から考えればどうでもよいことである。そういうことは裁判官が決めることだ。我々に必要とされることは物事の中心(筋道)に即した正しい考え方なり見方が社会全体に保たれているかどうかを常に点検する姿勢なのではないのか。ところが現状ではミヤネ屋という番組では、私は直接は見ていないけれど、コメンテーターとして出演している元宮城県知事は名誉棄損について頓珍漢な解説はするわ、番組は番組で係争中のまだ判決が確定していない案件について一方の当事者(高須氏)から謝罪を要求されれば即座に応じて、司会者が「仲良くしてください。イエスといってください」などと報道の中立性を無視した知性や品性のかけらも感じられないような恥知らずの発言をするわ、大衆は大衆で民進党の低落ぶりに拍車を掛けるように訳も分からずに高須氏を持ち上げたり英雄視するわで、これでは日本の言論とか精神は全く形を成していないと見れるものである。もう少し中心軸が通った思想なり見識を日本全体で養っていかなければ日本に未来はないと思われる。現実が正論通りにいかなくても、いやだからこそ、正論を考えたり主張する精神は社会に必要なのである。