龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

名誉棄損の適用について

名誉棄損の適用要件についてであるが、元宮城県知事の浅野史郎氏は高須クリニックの件に関して、民進党大西健介議員は真実を述べただけだから、名誉棄損には該当しないとミヤネ屋の番組内で発言したようであるが、それは正しいとは言えない。高須氏が言うように「耄碌」しているかどうかは別として、法律のことを正しく理解していないのに、多くの人が見ている番組内で公然と誤った説明をすることは、表現の自由とはいえ、別の意味で問題があるように感じられる。浅野氏がいうところの真実性とは、政治家のプライバシーに関する報道を想定して発言したのであろうと想像される。たとえば橋下氏の出自についての週刊誌の報道で、最近のことであったと思うが、最高裁で橋下氏の敗訴が確定したものである。橋下氏の主張では、いかに政治家に関する事柄であっても、数十年も前の出生の場所が部落地域であったということや、父親がやくざで橋下氏が小さな時に自殺した事実などについて報道されることは、プライバシーの侵害であり公共性の利益とは無関係であるということで新潮社を訴えていたものであるが、その訴えは却下されたのである。それが報道の真実性と名誉棄損の適用についての一つの基準になっていることは事実であるが、その基準を高須クリニックの件に当てはめるのは的外れであるとしか言えないものである。そもそも高須クリニックの広告が「陳腐」であるかどうかなど、見る人の主観によるものであって、何が真実で何が虚偽であるなどと認定できないものである。よってこれは客観的な事実や真実を指摘したものと言うよりも、主観的な判断で公然と他者の評価を貶めたとする「侮辱罪」が適用されるかどうかという判断になるのだと思われる。但し名誉棄損も侮辱罪もその適用は、そこに公共性の利益があるかどうかということは、重要な判断基準になっていると考えられるので、政治家が業界の問題性について審議している過程で、陳腐という表現を使ったからと言ってそれが名誉棄損なり侮辱になり得るとは常識的には考えられないものである。
浅野氏の説明する通りに真実性の有無が条件になるのであれば、たとえばこのようなケースを想定すればどうであろうか。ある女性が顔にやけどを負っていてケロイド状になっているとする。その女性の容貌に対して誰かが公衆の面前で「醜い」という言葉で表現するようなことがあれば、それは真実なのだから名誉棄損にも侮辱罪にも該当しないのかということである。そんなことはあり得ないであろう。しかしこういうケースも考えられる。ある皮膚移植手術の権威である医者が、どこかの会場で講演をしていて、たまたまその講演を聞きにきていた顔に火傷跡のある女性が壇上に呼ばれて、その医師から「今はこのように醜い状態になっているが、最新の移植手術をすれば元の美しい顔を取り戻すことができます」などと多くの聴衆者の前で説明されたとすればどうであろうか。その女性が多大なショックを受けて、その医者を名誉棄損なり侮辱罪で訴えれば果たして認められるかどうかということで、これは少し微妙な判断になってくるものと思われる。裁判官の判断とすれば、果たしてその場面で女性をわざわざ壇上に上がらせて、醜いなどという言葉で説明する公共的な必要性があったのかどうかという観点から評価するであろうし、そこにおいて真実性の有無など全く無関係である。高須クリニックの問題も、橋下氏の出自に関する訴訟などよりそのようなケースに類似したものであると考えられるが、女性の容姿を公衆の面前で醜いなどと言うことはどのような場面であっても社会通念上、その必要性は認められ難いと考えられるが、一企業の広告に過ぎないものを陳腐と表現したところで果たしてそれと同等の重みがあるのかどうかだということだと思われる。まあそのあたりの判断は、裁判官が決めることだから認められる可能性もなくはないであろうが。いずれにせよ浅野氏の発言を聞くにつけ感じる所は、政治家という人種は法律のことが今一よくわかっていないようであり、また法律に則った正しい考え方も身についていないのである。これは浅野氏だけに言えることではないと思われる。そのようなレベルの人間がたくさん集まって、その場の流れや乗りで次から次へと法律や条例を制定していくのだから、日本と言う国がおかしくなっていくのも当然なのである。