龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

タレント議員の存在価値

タレント議員の不倫とかで、これほど大騒ぎしている理由がわからない。取り上げているマスコミは、そのタレントが国会議員として一定レベル以上の仕事をするなり存在感を示せると、本気で期待していたのであろうか。まあ、どう思おうとその人の勝手ではあるが、有名タレントで、それもそれなりに若くて美人で、ほとんど知名度があるだけの理由で選ばれた人でしょ。不倫するのが当然とまでは言わないけれど、ここまで大騒ぎするほどのことでもないではないかと思うのだが。政治家の芸能人枠として、むしろ不倫を特例的に奨励してもよいぐらいではないのか。このような政治とマスコミのドタバタ劇を鑑賞していて感じることは、元々政治家としての資質や意識のない人間をわざわざ政治家に祭り上げておいて、不倫をしたといっては、一線を越えているから辞職しろなどと騒いでいる図式は、政治とマスコミがグルになって民主主義を捏ねているだけのことで、我々一般国民の感覚や利益とは何の関係もない話しなのである。こういう話題をいつまでも捏ね続けている限りは体制に変化はないし、今の日本には多過ぎるタブーの問題から大衆の目と意識を他に誘導できるから都合がよいのであろう。これがそもそも日本の政治の実態なのである。だからこそ不倫してもおかしくはなさそうなタレントを政治家にしようとするのだし、政治が煮詰まってきたり、虚構の民主主義を活性化しなければならない時にはタレント議員のスキャンダルが表面化してくれなくては困るという理屈にもなるのであって、言ってみればスキャンダルが支える政治の隠し玉である。そのような構図が見えてくると、あまりにも馬鹿らしくてそのような話題を口にするのも嫌悪感が感じられるのであるが、もういい加減にこういうレベルの政治から卒業しなければならないのではないかということは言っておきたい。そもそもタレント、と一口に言ってもタイプは様々であろうが、それでも基本的に芸能界に身をおいている人間は、政治とか社会体制に対しては、言い方は悪いが本質的には奴隷のような存在である。政治とか大企業の体質、資本主義の問題などに関して、タレントは絶対に口にすることが許されないし、またこういうことを言えば偏見だと怒る人もいるであろうが、タレントとはそういうことを客観視する能力がない人種であるともいえるものである。それはそうであろう。売れてなんぼの世界である。大企業に引き立てられて、協賛のドラマや映画、CMに出演すれば何千万円、何億円のギャラが入ってくる世界で、政治とか社会体制の問題とかを客観視できる訳がないものである。そのような世界で何十年も生きてきた人が、いきなり政治家にましてや国会議員になって、ちょっと勉強したぐらいで世の中の問題を正しく理解したり、自分の頭で考えたことを発言することができると思いますか。それでは何でそういうタレントが政治の道へ引き抜かれることが多いかと言えば、元々政治とマスコミの親和性が高いということもあり、また当選の可能性が高いことも当然ではあるが、資質的な面においても、そのような馬鹿とはいわないが素直な人を政治家にさせておいた方が体制護持において都合がよいし、今回のような不倫騒動などのスキャンダルなどの利用価値も高いということなのであろうと考えられる。これがアメリカやヨーロッパなどにおいては状況は異なるかも知れないが、日本のタレント議員などはその程度の存在なのである。政治とマスコミは、大衆に対しては管理者層として同じ船に乗っている運命共同体の性質を有しているものである。だからこそ何の能力もないようなタレントを政治家にして、時にはスキャンダルを利用して民主政治という粘土を一緒になって捏ねているのである。それが自民党の(民進党も当然同じだが)、政治なのである。我々日本人はもういい加減にこの馬鹿騒ぎを見飽きたと、もっとまともな出し物の政治を演じよと要求しなければならない。