龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

パチンコ中毒について

もう4~5年前ぐらいになるのか、NHKでパチンコ中毒のドキュメンタリーが放映されていて、その中で主婦がインタビューに答えて語っていた言葉が印象に残っていて、今も覚えている。パチンコ中毒の主婦が言っていたのは、打ち続けていてやっと大当たりが出ると、パチンコ台に自分の気持ちが通じたような気がして涙が出そうになるほど嬉しいというような内容だったと思う。その気持ちはわからないでもない。日常のギャンブルをしている時以外の生活において、自分の気持ちが何かに通じたり、思い通りにいくことなんてほとんどないでしょ。それがパチンコで諦めずに念じ続けていれば、いつかは自分の気持ちが通じるんだ、報われる瞬間がやってくるのだと、大当たりが出た時には頭の中にドーパミンがドバっと大量に放出されて、自分の存在そのものが世界に受け入れられたような喜びに包まれるのだと思われる。それがパチンコ中毒の典型的な心理状態であろう。パチンコだけでなくギャンブルに嵌る心理というものは全てそのような傾向があるのであろうと思われるが、パチンコの相手は目の前の台であったり、その内部のプログラムに過ぎない訳でしょ。そんな物に自分の人生観を重ねて、心が通じたとか、報われたとか思える瞬間を求めながら、何時間もレバーを握りしめて銀玉を打ち続けることはあまりにも寂しいことだと思うのだけど、パチンコに嵌っている人間にとってはそれもまたというか、それこそが人生なのである。心が通じるも何もデジタルのプログラムに操られているだけのことである。もっと他にたとえどんなに困難であっても、心を通じ合わせる相手なり物はないものであろうか。悲しい人たちだなあ。
しかしそうはいっても、私だってこれまでの人生においてパチンコに嵌っていた時期はあった。20代のころだからもう20年以上も前のことであるが、私が嵌ったのはデジタル台ではなくて、一発終了台である。パチンコを経験したことのない人や今の人は知らないかも知れないが、一発終了とは一発の球がある所に入ればそれだけでチューリップが開き放しになって、右打ちといって右側だけを狙って球を打ち続ければそれで終了まで行くのである。私が当時、毎日のようにしていたのは、今や知る人ぞ知るであろう伝説の機種である「スーパーコンビ」であったが、これがまた何とも言えず面白かったのだ。パチンコ台上部の天釘左の辺りに一本だけ捻くれたように固く締められてある釘があって、ぱっと見た目には絶対に通り抜けそうには見えないのだが、そこをひたすら狙って打ち続けていると、奇跡的にスルッとした感じで球が内部に侵入するのだ。その侵入の感覚がまた快感を催すのである。そしてその球は螺旋状のスロープを転がっていって、下部には穴が3か所あいている中央が浅く窪んだ受皿があるのだが、その皿をくるくると回り続けて手前の穴に落ちれば大当たりで終了までチューリップが開き続けるのである。当時で1万円ぐらいの金になった。下の皿を球が回り続けている時のあの何とも言えない緊張感と祈るような気持ち、そして幸運にも手前の穴に入ってくれた時の喜びは今もよく覚えている。このスーパーコンビという機種を設計した人は天才だと私は今でも思っているが、この台の魅力は一口で表現すればエロティックなのである。ほとんど全ての球が無駄玉になって死んでいくのに、その中の一発だけが奇跡のように絶対に入らないような隙間をスルッと抜けていく光景は、露骨な例えで申し訳ないが、子宮内部に突入していく元気のよい精子を想像させるのである。だからその侵入だけでも見ていて興奮するものだが、下の皿をくるくる回転して手前の穴に落ちた時にはそれは受胎なのだ。その瞬間に天上世界のファンファーレが鳴って、神と世界に祝福され、赤ん坊のおぎゃーという泣き声まで聞こえてきそうであった。だからあのスーパーコンビは私に言わせれば、男のためにある台なのであった。果たして設計者がそこまで考えていたかどうかはわからないが、恐らくは考えていたと思うが、男が人生を生きる困難さとか、エロスに突入する奇跡の瞬間を体感させてくれる喜びと興奮に満ちていたのだ。私がどれほどその台に嵌っていたかと言えば、当時、東京で働いていたのだが、休日はもちろんのこと外回りの営業中にも仕事をさぼってその台で遊んでいたことが多かった。ある時などは六本木のパチンコ店で営業の合間のことであったが、何と受け皿の三つの穴の中心に位置するほんの狭いエリアで球が回転しながら、どこにも落ちずにその場所で止まってしまったこともあった。本来であればそんなことは絶対に在り得ないのである。必ずどれかの穴に落ち込むようになっているのだ。正に奇跡の中の奇跡であった。そういう奇跡が起こり得るほどに当時の私はその台で遊んでいたということであった。結局その時は店員を呼んだのだが、そのまま手前の穴に入れてくれるのかと思えば、店員が再度スロープに球を転がせて、私よりも周りの客が出してやれよとか文句を言っていたものだが、運よく手前の穴に落ちてくれたのであった。
そういうことで私もまた人生の一時期にはパチンコに嵌っていたことは事実であるが、私が相手にしていたのは目に見える一本の釘と、一つの球が螺旋のスロープを転がり落ちて行ってどの穴に入るかというだけの単純明快でシンプルなルールであった。だからどうだと言うこともないが、当時の私は若さゆえにかなり馬鹿であったとは思うが、誰かが裏側で出玉を操作していてもおかしくないようなデジタルのプログラムに心を通わせようとしたり、幸運の祝福を求めるほどの馬鹿でなかったということは出来るのではなかろうか。こういっては何だが、今の私と同じ年代の50代や40代の人でも、デジタルプログラムの幼稚としか言えないようなストーリー性の機種に嵌ってパチンコ中毒になっている人は、日本に一杯いる訳でしょ。人様の趣味にケチをつけるのもどうかとは思うが、そういう人々は世の中のことが何も見えていないのであろうなと思う。だからある意味では、パチンコ愛好者は終わってしまっている人種であるとも見れる。中には色々なことが見えていて、わかっていてそれでもやっている人もいるのであろうが。私はもうパチンコをしなくなってから20年以上は経っていると思われるし、これからやることもないであろう。時間があるなら静かな場所で本でも読んでいたいし、もうパチンコ玉の動きを見てエロスを感じたり、興奮するほどの元気もない。