龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

カジノ推進に見る日本の政治手法

パチンコの出玉を、従来の3分の2に規制する改正風営法規則が決定されたということであるが、これはギャンブル依存症対策の一環ということであるが、今更パチンコ依存も何もないのであって、そもそも警察はこれまで頑なにパチンコはギャンブルではない、単なる娯楽であるという立場を崩していなかったはずであるのだから、言っていることとやっていることが矛盾しているではないか。常識的に考えれば、来年2月から予定されている出玉規制は、依存症対策などではなくパチンコ全体の23兆円もの売り上げの一部をカジノに移転させようと政治や警察が目論んでいることの策略であると思われる。パチンコ業界の売り上げ規模は莫大であるが、それでも頭打ちの減少傾向が継続しているものであって、日本人に馴染の薄いカジノに客を誘引するためにはパチンコに費やされている金の一部を政策的に取り込む必要性があると判断されたのであろう。仮に23兆円の1割がカジノに移転すれば約2兆円である。政治や警察は国内のカジノに、2兆円ぐらいの規模は欲しいと考えているであろうし、そのためには今のギャンブル全体の売り上げを維持したままでは見込みが難しいであろうから、パチンコの売り上げとの間で調整が行われているのである。競馬や競輪などは国営ギャンブルであるといってもそれぞれの管轄(縄張り)が異なるから、そこから売り上げを移転させることは遠慮があるのであって、ということは恐らくはカジノもパチンコ同様に警察組織の管理下(利権)ということになるのであろう。ギャンブルの性質的に考えてもパチンコとカジノでは、競馬や競輪などよりもはるかに類似性が高いので政治的な判断とすれば一括りの対象として総体的な規制なり調整が行われているのである。この点から見ても日本の政治がカジノにどのような層の人間を対象にして、当て込んでいるかがわかるというものである。パチンコをしている人間は普通の会社員であって金持ちでも何でもない。毎月の給料の一部の数万円を週に何回かの頻度でパチンコ店に通ってつぎ込んでいるものである。金持ちはパチンコなどしないものである。まれにすることはあったとしても、深くのめり込んでまですることはないはずである。パチンコ中毒や依存症になる人間は所得や貯蓄の低い層である。所得や貯蓄が低いからこそ手持ちの2万円ばかりの軍資金を10万円にしてやろうと夢見て、一日中でもパチンコ台の前に座っていることが出来るのである。生活保護を受給している人間が多くしていることが、パチンコというギャンブルの対象層を物語っている。これが何度も私が引き合いに出している大王製紙前会長の井川氏や、そこまでいかなくてもそれに近いような超富裕層であればパチンコ台の前で何時間もかけて2万円の金を10万円にしようとするような気にはならないはずである。必ず元手の金が増えるという保証でもあれば話しは別であろうが、ある一定レベル以上の金持ちからすれば僅か数万円程度の儲けのために何時間も或いは一日中、台の前でじっと座っている状態は、腰が痛くなるだけであまりにも効率が悪過ぎるし、遊戯することのモチベーションがほとんど皆無である。負けることの方が圧倒的に多いとなれば尚更のことである。カジノとはそのようなごく一部の富裕経済階層の人々のためにある特権的なギャンブルなのである。そしてそういう人々がVIPの固定客になって、1回あたりに数百万円や時には1千万円単位の勝負をすることで、カジノの経営は成り立つのである。それに比べてパチンコは客が数万円程度の金で延々と時間と場を占拠しつづけるギャンブルなので、カジノで言えば前回にも井川氏の『熔ける』の内容から述べた通りにザラ場の客なのであって、大勢の客が絶えず出入りするザラ場の売り上げだけでは、カジノの経営は利益が出ないということである。確かに数字だけ見ればパチンコの23兆円の1割を引っ張ってこれれば2兆円になる。しかし日本の政治や官僚の悪い癖で全体的な数字しか見ていないから、政治的な操作でそういう皮算用が成立するという思考回路になるのであろうが、パチンコとカジノではその中身が全く異なるものである。庶民の小遣い程度の金を日本中からいくらかき集めようとしても、カジノはパチンコのような盛況を呈することにはならないであろう。井川氏のような金持ちを囲い込んで、気分よく数百万円、数千万円の金を賭け続けさせるマカオのジャンケットのような制度なり、ノウハウがないとカジノは成功しないものである。だから日本のカジノの行方は、依存症対策であるとか、パチンコの出玉規制などと偽善的なことを言っている今の時点でもう既に失敗することが織り込まれているようなものである。日本の政治は何一つとして肝心なことを理解していない。カジノについても雇用拡大であるとか、経済的な波及効果などをメリットとして強調するが、本質的には新規のビジネスとしてよりも確実な税収源の一つとしてしか考えていない。収税の原則は消費税のように広く、薄くだからカジノの対象層も同じような思考でしか捉えていないのである。それでパチンコの売り上げとカジノの間で調整を計って、カジノのスタートに推進力を持たせようとしたり、依存症対策をどうするかということが議論されているのである。カジノを収税と同じように考えていて成功する訳がない。庶民の懐をあてにしたところでパチンコに毛の生えた程度にしかならないし、それではカジノは採算ベースには乗らないのである。前回にも述べたが日本の政治は経済的な弱者をより弱くする方向性の思考回路しか持っていないのである。なぜならその理由は、経済的な弱者層は、政治的な組織力もなければ批判能力も持ち得ていないからである。端的に言えば、いい年齢になってパチンコを趣味にしてしているような大衆層は普段から何も考えていないので騙しやすいのである。しかしそのような頭の程度の低い大衆をそのままカジノに誘導できるかと言えば話しは別である。牛や馬でも喉が渇いていれば勝手に水を飲むであろうが、飼い主が無理やり飲まそうとしても、喉が渇いていなかったり、本能的に危険を感じれば言うことを聞かないであろう。それと同じである。辛辣な言い方で気分を害される人もいるかも知れないが、そういう目と思考で追及しようとしない限り、日本の政治の実態など死ぬまで理解できないことであろう。まあその方が幸福なのかも知れないが。
それからもう一点、重要だと思われることであるが、大王製紙前会長の井川氏の事件が最初に報道された時には、井川氏は当初は日本国内でバカラか何かのギャンブルをしていたものの、それに勝てなかった原因について井川氏は、自分の身元が周りに知られているので(つまりいくらでも金を持っている人間であることが胴元に知られているということだが)、いかさまが仕掛けられているであろうと考えたことから、自分のことを誰も知らない海外のカジノでギャンブルをすることになったと新聞で報道されていたように私は確かに記憶しているものである。ところがそのことについて『熔ける』では全く触れられていないばかりか、海外でギャンブルを始めることになった経緯についても別の話しが紹介されているものである。もちろん国内でバカラなどのギャンブルをすることは違法行為なので、たとえ刑務所から出所してから過去の新たな違法行為を告白しても遡って罰せられることはないであろうが、本の中で言及することを避ける判断を井川氏なり出版社がしたのであろうと想像される。新聞の当初の報道が間違っていた可能性ももちろんあるにはあるが、仮にそうであれば井川氏は『熔ける』の中でその誤りを正そうとしたであろうから、やはり何新聞だったかは忘れたが、その報道内容は真実であったのであろうと私は考える。まあそれもどちらでもよいことだが、なぜ私がこのことを言うかといえば、国内でカジノができた時にVIP客が個室で遊んだ時のプライバシーがどこまで保たれるかわからないことにある。プライバシーの問題については井川氏も『熔ける』の中で言及していることだが、確かにたとえば日本の財界の著名人や芸能人が日本のカジノで一晩に数千万円もすったということになれば、その情報は必ずどこかから漏れると思うのである。それで週刊誌やTVにそういうことを報道されると、芸能人はともかくも財界の人間であれば社会的な信用にも関わることなので、日本の金持ちはほぼ間違いなく国内のカジノで大金を投ずるような馬鹿な真似はしないはずである。誰だって羽目を外すのであれば、井川氏のように自分のことが知られていない海外を選ぶであろう。それは当然の心理である。よって前回にも述べたように中国人の金持ちインバウンドをあてにしても、掛けの金をきちんと回収できる見込みは低いであろうし、国内の有名人や金持ちは顔が割れることを心配してそういう所は避けるであろうから、結局は庶民的な会社員などがたまに奮発して遊ぶ程度のギャンブル場に落ち着いてしまう可能性が高いであろう。ということで日本のカジノは、パチンコかゲームセンターに多少の毛が生えたようなショボ臭いものになって失敗するであろうことはもう目に見えていることである。オープンして最初の1年ぐらいは話題性でそれなりに客も入るかも知れないが、2年目以降で明らかに失敗であったことが判明するのではないか。閑古鳥が鳴いていてもおかしくはないと思う。さて皆さんはどう予想されるであろうか。私はこの点の見解については自信を持っているものである。賭けてもよい。