龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

国益の観念を喪失した日本の戦後政治

理念や理想として対話の道を開けということは簡単だが、国家観の紛争や外交は小学生同士の喧嘩のように純粋に話し合いのみで収まりがつくものではない。子供の喧嘩が終息するのは話し合いで双方が納得したからというよりも、そこに親や教師などの逆らえない絶対的な権威があって、最終的にはそれに従わざるを得ないことを子供自身が了解しているからである。北朝鮮は1948年に建国されたばかりの100年にも満たない歴史的にも、また民度や党幹部などの為政者の精神性においてもまさに子供のような国家であるが、だからと言って国連の決議やアメリカなどの大国の要請に素直に従うものではない。日本が戦争に負けた結果ではあるが、朝鮮半島が分断され、元々単独で健全に進化、発展していけるような技術や能力を持ち得ていない地域の集団が独立国家として世界の中で承認され、核開発や恐怖政治でしか内部統制が取れないような危険極まりない独裁政治が戦後の三世代に亘って継承されているものである。いとも簡単に対話の重要性を唱えるが、対話とは軍事力の均衡や経済取引との関連の上で成り立つものであって、日本のように憲法戦争放棄を定めている国が、建前として恫喝しているだけかも知れないが核攻撃で日本の本土を沈めるなどと公言しているような相手とどのような対話ができるというのであろうか。出来る、可能性があるというのであればそういう考えの政治家が実際に北朝鮮に赴いて、実のある対話をしてくればよいではないか。日頃からそのような努力をしていない日本の政治家が、単にイデオロギーの問題として、圧力や制裁よりも対話が重要であるなどと主張し続ける姿勢は、無意味であるという以上に社会的な弊害でしかないものである。アントニオ猪木氏のように北朝鮮とのルートを持っていて、度々訪朝して北朝鮮の有力な政治家と会談するのであれば、まだしも評価はできるものである。しかしその内容については現実的には対話と言えるようなものではなくて、北朝鮮側の陳情を聞いたり、動静を伺ったりする程度のレベルであろう。それでも全く何もしないよりは接触があるだけで意義があるということは言えるであろう。これが民進党代表の前原氏のように過去に何回か北朝鮮に物見遊山で赴いて、北朝鮮が用意した美女に接待してもらったということでは正に遊んでいるだけのことである。日本の国政政治など全般的にはその程度のレベルなのである。実質的には遊んでいるだけで何も実のあることはしていないし、我々国民の税金を湯水のように蕩尽させているだけであるのに、日本の精神を内側から束縛するイデオロギーを大衆に先導、訓育させるだけで、いかにも立派な仕事をしている振りをしているだけなのだ。振りをするというよりも正確に言えば、日本の政治家は粉骨砕身して事に当たらなくとも、それだけのことで、つまりは自らのイデオロギー固執するだけで、国民の税金を無駄遣いしたり、或いは潜在的な危険性を放置し続ける態度を取ることが許される立場の人間であると勘違いしているのである。国会議員としてそれなりの権限を付与されていながら、自分では何一つとして北朝鮮関係者との交渉や根回しもしていないのに、単にイデオロギーや政争の問題として、対話や平和の重要性を皮相的に唱え続ける政治家はその最たるものである。繰り返すが日本の政治家は、一部の者が政治資金を不正に蓄財したり、不倫などの不品行をしているのではなくて、全体的にそのような傾向性を均質的に共有させているものである。その堕落の原因はイデオロギーを唱えることが戦後の政治家の使命なり役割になっていて、現実レベルにおける国益や国民の生命を守るということが、ほとんど放棄されているに等しいからである。今や日本の政治においては国益という観念すら消失してきているものである。構造的に見れば、日本の政治が何をしているのかと言えば、単なる「調整」だけである。そして調整の中身とは、本質的にはマスコミなどの情報のコントロールや国民の批判能力を奪う愚民化政策が中心となっているのであって、国益や国民の生命、財産を守るという本来の責任が軽々しいものに陥っているのである。対話や平和を守ると声高に訴えれば、確かに美しく聞こえるであろうし、世界各国からも賞賛されるかも知れないが、果たしてその内実が伴っているかということである。現実に解決に向かうような努力や行動をせずに、自らの信条を言い表す言葉を唱え続けるだけであれば、極論すれば人間でなくてもオウムやインコでも真似のできる芸当である。果たして日本の民主政治や言論が、オウムやインコ以上のものであるのか、一人でも多くの国民によく考えていただきたい。政治のレベルを引き上げるには、我々市民の認識力、意識によって底上げしていかざる以外に道はないのである。そのためには中身の伴わない政治の美しいだけの言葉を先ず否定していかなければならないのだ。