龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

M-1審査について

それからついでにM-1の審査についても個人的な意見を述べておく。上沼恵美子さんが、審査の際に好きとか嫌いとか言っているのは番組を盛り上げようとして言っていることであって、決して好き嫌いの感情だけで採点しているのではなく公正に妥当な点数を付けようとしていることは見ていてわかるものである。しかしそれは視聴者の立場で見ていればわかることであるが、出演者の芸人の立場で言えば、審査員の採点がその芸人の人生に与える影響力があまりにも大き過ぎるのである。言ってみれば、裁判官が下す判決のようなものである。極端な例えになるが、裁判官が被告に対して「君のことは嫌いだ。だから死刑」と言っているようなもので、判決を下される芸人にとって見れば番組を面白くするために言っている上沼さんの言葉を文字通りに受け取って憤慨する気持ちもわからないではない。要するにM-1は、審判員や視聴者の冷静な視点と審判を下される芸人の心理状態にあまりにも大きな温度差や落差があって、それがこの番組の臨場感のある生放送ならではの面白さになっているのであろうが、それはそれで少なからず問題があるようにも感じられる。なぜならプロの採点と言っても、プロは素人とは違ってお笑いの技量の差を見ることは出来るであろうが、技量が拮抗している場合は最終的にどういうお笑いをより面白い、或いは優秀と見做すかということは、結局は審査員のプロの観点からの好みに行き着かざるを得ないと考えられるからである。つまりは上沼さんが、好きだ、嫌いだと言っていることが感情の問題ではなくて論理的に正しいということになるのだと思う。しかしプロのお笑いに対する嗜好性や好みが一般大衆よりも優れているかといえば疑問である。本当にプロのお笑いを選ぶ目が素人よりも優れていてはっきりしているのであれば、審査の時に票が割れたりはしないはずである。それがなぜ割れるのかと言えば、プロの審査員のお笑いの世界における地位や境遇やお笑いそのものの可能性を追求する志向性が採点に反映されるからだと思う。たとえば上沼さんのように大御所と呼ばれるような地位にあると、新しいタイプのお笑いを求めたり、それを面白いとは感じないであろう。なぜなら自分自身の境遇にその必要性がないからである。ところが若手や中堅どころの地位であれば、他の芸人と同じような感性のお笑いの面白さに満足していれば、新しい才能の出現に淘汰されるという危機感があるであろうから、正統的ではない型破りな芸風を高評価することになるであろう。そういう人は新しいお笑いに対して研究熱心で貪欲なのである。中堅どころではないであろうが今回のM-1においては、立川志らくさんの採点にその傾向が感じられた。要するに一口にプロの採点と言っても、全然、評価基準が異なる感性が自分勝手に何を面白いと感じるか、何が好きと感じるかを採点してそれらを合計しているだけのことなのである。ということは誰が優勝するかということは、誰を審査員にするかによって決定づけられる割合が大きいということだから、今回の暴言騒動のようなことが起きることはある意味では必然というか、そういう要因を根に含んできた番組であると言えるのであろう。それでは結局どうすればよいかと言えば、やはりプロではなくて素人が採点する方式に切り替えるべきだと思う。そもそも漫才は、小説や絵画のように上からの権威づけで優秀さが決定づけられる性質のものではなくて、大衆芸能なのだから大衆がどう判断するかということが全てなのだと思う。たとえば10人のプロの審査員と10人の素人の審査員であれば、明らかに10人のプロの方が正しく審査出来るであろうが、10人のプロと10万人の素人では10万人の素人の審判の方が私は絶対的に正しいと考える。漫才と言う庶民の大衆芸能を権威づけによって選ぶという政治性がそもそも間違っているのである。