龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

沖縄の苦しみと日本の無力

沖縄の基地問題について言えば、日本全体の問題であるのにどうも沖縄県以外の我々、本土の側が冷淡というのか無関心であるような気がして心が痛むものである。見捨てられた観が強いのである。マスコミ報道を見ても、現地の琉球新聞や琉球放送などの必死の抵抗を尻目に、大手マスコミは沖縄の混乱の模様を淡々と報ずるばかりで、あまり踏み込んでコメントしない姿勢が継続されている。だから今更ながらではあるが、辺野古移設への土砂埋立強行に対して反対の署名運動が民間レベルで起ることは、ある意味では勇気付けられるし、喜ばしいことでもある。ただ情実的な感情の問題とすればそうなのだけれど、現実的な選択肢とすれば現状において代替案というものがないのであるからどうしようもないのではなかろうか。2009年の民主党政権誕生において鳩山は、少なくとも県外などと言っておきながら、米国に対して具体的な交渉どころか打診するところまでいかないで自滅するように退陣した。回りの官僚に説得されただけである。何が政治主導であるのか。もちろん真っ向から米国と交渉したところで辺野古移設が覆されたり、代替案が検討される可能性は0に近かったであろうが、公約として掲げていた限りは、そしてそれが支持、期待されて発足した政権であるのであれば、結果がどうであれ独立国家として我が身を挺した交渉なり対話の経緯というものを国民に対して示すべきだったのである。傀儡国家だなどと言われても、実質的にはそうであっても一応は一国のトップであるのだから仮にそのような姿勢を見せたところで、ケネディのように暗殺されるようなことにはならないであろう。またこう言っては何だが、そもそも暗殺の対象になるレベルの政治家ではないではないか。色々な意味で馬鹿にされて笑われていただけである。官僚のレクチャーを受けて沖縄の抑止力の必要性がよくわかったなどとは空いた口が塞がらない子供じみた言い訳であった。鳩山はこの世に生きている限り、沖縄県民に対して土下座し続けるべきなのである。そして政治家を引退してもこの沖縄の基地問題に対して自らの反省と責任のもとに真摯に回顧し、謝罪の言葉と共に混乱の収束のために尽力すべきではないのか。あんな人間に何を言っても同じではあるが。
鳩山はともかく、基地問題は畢竟するところは自分の国は自分たちで守るという意思を持つのか、それともアメリカに守ってもらって日米同盟と米軍の抑止力に頼るかという二者選択でしかないものである。沖縄に基地が集中し過ぎているということは、沖縄県民には悪いけれど、言ってみれば副次的な問題なのである。自主独立国家として基本的には自国で抑止力や交渉力を保持するという姿勢を持てない限りは、米軍基地の退去であるとか配置についても米国の要求に従わなければならないことは、理の当然である。沖縄の海が汚れようと、環境が破壊されることになっても仕方ないことなのだ。軍事や国防は、情実や理想で解決できることではないであろう。現時点では残念ながら日本の政治の選択は米国の抑止力に頼るということなのだから普天間の危険性を取り除いて、辺野古に移設するという決定に従わざるを得ない状況なのだ。沖縄県民の負担の重さは、政治的な補償を厚くして妥協を図るしか道はないのではないのか。この状況を本気で変革しようとするのであれば、日本は憲法9条から戦争放棄の文言を削除して、核兵器の装備もするべきなのである。その覚悟を持てるかどうか、もちろん一朝一夕には変えれることではないが、その方向性に向けて議論を進めていける雰囲気を日本国内に醸成できるかどうかだ。憲法自衛隊の明記などどうでもいいことである。私は個人的にはそのような意見である。いずれにしても、あれもいや、これもいやと言うのでは子供が駄々をこねているのと同じで未来永劫、何の解決にもならないことだ。それから金科玉条のように日米同盟の重要性や米軍の抑止力を唱えるが、そんなことは10年後、20年後にどのように変化していくか、わからないものである。アメリカのトランプ大統領北朝鮮金正恩が、外交の場で仲良さそうに握手する時代である。北朝鮮核兵器を廃棄する気など元から欠片もないであろうが、米国を交渉のテーブルに引き出させて対等に話し合いが出来た事が最大の成果であり、当初からの目論みであったことは明らかである。北朝鮮の交渉能力や存在感は今後、大きくなっていく可能性が高い。世界は日々、小さな変化を積み重ねて気が付けば大きな変化を遂げているものである。日本だけが千年経っても何の変化もないような冷戦思考に囚われて、同じ議論を延々と繰り返しているのである。それで飯を食っているような人間が、日本はあまりにも多すぎるからである。本当にうんざりだ。