龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

盆暗の国難

仕事が始まる。ということで、直接的には何の関係もないがブログの記事も再開させなければならない。単に気分の問題だ。要するにブログの記事を書くことは私にとって報酬はないけれど、仕事みたいなものである。人間、生きている限り憂鬱であろうとも、楽しくはなくとも何らかの仕事をしなければならないということだ。

さてそれで鬱陶しくも憂鬱な話題ではあるが、韓国という国の政治とマスコミは少なくとも日本に対しては、頭がおかしいし、狂っているとしか言えないものである。到底、まともに話し合いができるような相手ではないし、精神構造が幼稚なタチの悪いチンピラにしか見えない。そういうスタイルでしか国が存立し得ないのであれば、ある意味では他国がどうのこうのと批判した所で詮のないことかも知れないが、日本は対韓国においてはそのような一般論の綺麗事で済ませる訳にもいかない状況にあるのだから、もっと「関わり方」というものを、或いは「関わりにならないスキル」というものを研究すべきではないのか。その姿勢がなければいつまで経っても、頭のおかしいような国に振り回され続けなければならないことになる。その上で日本の政治の外交姿勢というものが一義的に重要であることは言うまでもないことだが、日本のマスコミのこれまでの報道の在り方というものにも重大な責任があることを今こそきちんと認めて、追求していかなければならないのではなかろうか。どのマスコミとは具体的には明示しないが、一部のマスコミは韓国がごね得のようにごねまくって、日本に対する軋轢や緊張が高まる度に、批判されるべき韓国を批判せずに、日本の政治や民意を何の権限や権威があるのか知らないが、感情的に反発するのではなく冷静になるべきだなどと諌め続け、民間レベルでのいわゆる親韓ムードというものが損なわれないように意図する論陣が張られてきたものである。韓国音楽やドラマなどの日本国内への普及とか浸透というものもそのようなマスコミの影響力によるところが大きいのではなかろうか。もちろんそこに、なにがしかの良心とか正義、儀礼的価値というものが全くないとは言わないが、果たしてそういう問題なのだろうか。この点に関しては、日本中の国民一人一人によく考えていただきたいのである。日本のマスコミはそんなに「偉い」のであろうか。偉いなどという言い方は適切ではないかも知れないが、何を代表して、何のために影響力を行使しているのかということである。また消費税が上がることになれば、いつものように例のごとく、新聞は民主主義の木鐸などと軽減税率の適用に含められるための言説が言論空間を席巻することになるであろう。「木鐸」とはどういう意味かご存知なのであろうか。木鐸とは「世人を覚醒させ、教え導く人」ということである。ボクタクどころかボンクラではないか。少なくともマスコミの論説に国民を覚醒させるような力など一欠けらもない。盆暗とは、「ぼんやりしていて、ものがわかっていないさま」の意である。どちらかと言えば、マスコミ自体も盆暗であるし、またそのようなマスコミの影響力で日本の国民全体を盆暗にしているとは見れないであろうか。だからこそ日本にはいつまで経っても国難が継続するとも言えるものである。木鐸ならぬ盆暗に飲み込まれてはだめだ。そういうことを一人でも多くの人が肝に銘じていただきたい。