龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

政治言葉の弊害について

取り敢えず日本の政治家は、先ず日本語を適切に使用するということから学ぶ必要がありそうだな。安倍総理は30日の衆議院本会議で国民民主党の代表から、施政方針演説で韓国に言及しなかった理由を問われ、「非難合戦になるのは適切でないと考えたため」と答えたようだ。「非難合戦」という言葉が適切なのであろうか。そう考えるのであれば、日本の最高政治責任者としてよりも政治家として、言葉に対するセンスがなさ過ぎる。徴用工の判決もレーダ照射問題においても、少なくとも日本の立場においては日本が韓国を非難することは当然のことであるが、韓国が日本を非難することは不条理極まりないことであり、国際社会において守らなければならない道理を大きく逸脱した姿勢であると言える。実態とすれば確かに非難合戦の様相を呈してしまっているものだが、日本とすれば非難合戦になること自体が非常に遺憾なことなのであって、韓国は日本に対する姿勢を改めて、判決を事実上無効化させたり謝罪すべきであることを印象付ける言葉を選択しなければならないことは当然のことである。それを今、このような状況下で敢えて時間を割いてまで聞く方も馬鹿というか程度が低すぎるものであるが、非難合戦になるのを避けたいなどというような消極的で弱気な発言は、中学生が教師から何かを問い質された時に下を向いてぼそぼそと答える言い訳のようなものであって、そこに政治的な意義や戦略性は皆無である。それに日本の総理が非難合戦などと言えば、諸外国の人間が第三者的に見た時に、日本と韓国の両国が互いに五分の道理で言い争っているような印象を持つであろうから、必然的に国際外交の常として、声の大きい方や圧力の強い国の言い分が採用されて当然ということにも成りかねないものである。成りかねないというよりも、それが韓国の狙いであることは明らかなのだから、非難合戦(を避ける)などというような言葉の選択は、韓国の主張にも正当性があると認めているようなものであるし、結果的に韓国の反日政治をより声高に増幅させる方向性に導いてしまうものである。戦後の歴史の中で、韓国に対しては同じことを何十回、何百回と繰り返してきているのにどうして日本の政治家は学習ということができないのか。非難合戦が適切か不適切かではなくて、言及する価値があるかどうかであろう。言及する価値のないものは無視するしかないものである。それならそうとはっきり言えばいいだけのことである。前回に述べた岩屋防衛大臣のコメントもそうだが、無意味にその場を取り繕ったり、深刻な対立の状況を有耶無耶にさせたり、日本の立場を相対的に低下させて事態を改善に導こうとするかの政治家の言葉の使い方は、百害あって一利なしであると言える。日本の政治に費やされている政治資金の総額から考えれば、総理や大臣の言葉というものは、句読点も含めて一文字につき1万円ぐらいのコストが掛かっているのではなかろうか。金の問題だけでなく、総理や大臣が外交の場で日本の立場を反映しないような気休め的な適当な発言を繰り返していると、未来永劫に及んで我々の子孫がその悪影響を被り続けなければならないものである。というよりも今の状況そのものが、過去の適当な政治言葉が作り上げてきた結果であるといえるであろう。そういうことをよく肝に銘じて、政治家は一言一句を全身全霊で選んでコメントしていただきたい。