龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

FIFAの発表、日本は18位から49位に大きく後退。

傑作(0)
2006/7/13(木) 午後 11:17 | 新聞記事について | 詩
国際サッカー連盟(FIFA)は12日、最新の世界ランキングを発表。W杯ドイツ

大会を1次リーグ敗退で終えた日本は18位から49位に大きく後退した。(7月13日朝日新聞、朝

刊)

ワールドカップでの日本の戦いを見ていて、やはり世界との実力差を痛感させられた。しかし私が今、語

りたいことはサッカーの話しではない。日本の話しである。私にとって日本という国家の現状や方向性が

何よりも切実な問題なのである。サッカーの世界ランキングが49位に後退したことは確かに残念なこと

ではある。しかし世界の中での実力を正確に認識し、受け止めることが本当に強くなるための第一歩であ

ることは間違いない。

翻って日本の経済力や教育すなわち児童や学生の学力レベルは世界的にはどの程度の水準にあるのだろう

か。おそらく日本のサッカーが18位から49位に後退する以上に衰退しているであろうしそれは各指標

に表れているのかも知れないが、本当に危機感を持って直視されているのかということについては甚だ疑

問だ。もっと言えば指数化できないような日本人全体の知性や道徳観念が世界の中でどのような位置づけ

にあるのか、となると考えたことすらない人間がほとんどなのではないのか。日本で生まれ日本で生活し

続ける一般的な人間にとって日常というものは、生きていく上でとても大切な本質的な何かが、あるいは

長い時間で見れば個々人の人生に必ず悪影響をもたらす全体の問題が隠蔽されているもののように感じら

れる。幻想に覆われていて本質が見えなくなっていると言えるかもしれない。

日本は戦後、今日に至るまで他国との交流のなかに自らの生き方や存在意義を模索することなく日本が世

界だという考えから脱することが出来ないでいるのではないか。国家間の交流の中における存在意義に平

和の推進や経済援助が含まれることは当然だ。しかし、その方向に偏りすぎることは本当に直視しなけれ

ばいけない凋落の事実から目をそらしているだけではないのか。諸外国の首脳は馬鹿ではない。問題を摩

り替えて世界への貢献をいくらアピールしたところで誰も尊敬してくれないし信用もされない。利用され

続けるだけだ。日本人は基本的に西欧人とは気質やものの考え方が異なる。結局、日本人は日本人らしく

生きる以外に道はないのでありその日本人らしさにこそ、そしてそれを歴史のなかで育んできた文化や伝

統の中にしか日本の美徳や価値はないのではないのか。金魚の糞のように米国にくっついていったり西欧

社会を模倣しても日本人は決して幸せになれないような気がする。日本人らしさこそが出発点であり、諸

外国との交流の価値を生み出す源ではないのか。日本人は元々、攻撃的な民族ではない。たとえば阪神

路大震災のような状況になってもスーパーを略奪するような行為を行うものはいないし、助け合いの精神

がすぐに働く。勤勉であり、親切であり、いい物をつくる器用さや頭の良さを持っている。小泉八雲が見

たであろう、それら日本人の美徳は今日ではほとんど失われてしまった。また一面では日本人は西欧人と

違って個が確立されていないし大人しい性質なので全体の風潮に流されやすく、時の権力に対しても従属

的だ。節操がないし集団心理で極端に走りやすい。過去の戦争の国家統制下での世相や現在、憲法で戦争

放棄を掲げながら未だに中国や韓国から内政干渉され続ける理由は、日本人のその国民性にも原因がある

のではないだろうか。しかし私から見れば日本の外交上の世界的な地位の低さの本質は、日本国内が未だ

に冷戦下の右翼と左翼の2項対立の構図の中でしか物事を考えられない土壌にあるように思われる。言論

の自由とか民主主義などと言ったところで戦後の日本は平和を声高に叫ぶものとそれ以外の2つの区分し

かなかったのだ。どちらかの両陣営に属するだけで安心してきたのだ。日本が世界の全てだというような

閉鎖された意識が生み出す精神の貧困がそこにあるように思える。それはもしかすれば再販制に問題があ

るのかも知れないしそうでないのかも知れない。いずれにしても、今日そのような2項対立の思考では世

界的な現実に対応しきれなくなってきているのは事実である。

話しを元に戻すと、結局日本は強くならなければならないのだ。軍事的にという意味ではない。国を強く

すると言ってすぐに富国強兵に結びつけて批判するのはあまりに時代遅れだし、それこそ2項対立還元へ

の安易な発想である。経済や教育、芸術、文化、道徳など総体的に強くなることを目指さなければならな

い。また、軍事に関して言ってもミサイルを発射してくる国があるなら当然それに対応するだけの力は持

たなければならないだろう。いつまでも有事には米国に守ってもらおうなどと考えるべきではない。そも

そも憲法9条戦争放棄を謳いながら、戦争をする米国の同盟国だということ自体がおかしな話ではない

か。基本的なところで国家理念が破綻しているのである。それでまともな外交など出来るわけがないでは

ないか。日本は米国の庇護から離れるだけの覚悟を持たなければならない。その上でどう生きていくのか

のぎりぎりの決断が独立国家としての本来のありかただ。

しかし、差し当たり私が危惧することは、近年日本は様々な変な法律で国民に対する統制や抑圧を強めて

きていることである。もう既にこの国は来るべきところまで来ているようにも感じられるのだが、意外と

世論は平穏なのである。その落差が私にはとても不気味に感じられる。しかし話しが長くなるのでその件

についてはまた次の機会に述べたい。

話しを再び元に戻して、日本のサッカーのランキングが49位に後退したと言ってもこの10年のスパン

で見ればものすごく強くなったことは間違いない。それは強くなろうという意志があればこそ可能だった

はずのものだ。日本は国家としてまた国民一人一人が真に強くなるという意志を持たなければならない。

それが出発点だ。それからサッカーW杯やオリンピックはスポーツの祭典であると同時に唯一、ナショナ

リズムが発揚される場でもある。しかしW杯で勝ち進んだり、オリンピックでメダルを取る以上に大切な

ことがあるはずだ。今日の日本はホームレスがまだたくさんいるし、自殺者も急増している。ひきこもり

リストカットを繰り返す若者が何万人もいる。彼らは政治的発言をしないし経済的な消費、購買行動に

も参加していない。よって社会的にはほとんど無視されている。しかし、そういう人たちは、はたして弱

者なのだろうか。切り捨てていいものだろうか。日本人が日本人を思いやる心が薄れていくことはとても

哀しいことである。