龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

畠山鈴香事件―母性と親権の考察―

秋田県藤里町で起こった畠山鈴香容疑者の殺人事件について社会全体で考えなければいけないと思われる

点について述べたい。畠山は、長女彩香ちゃん(当時9歳)が足を滑らせた事故死との当初の警察発表に

納得せず「事故じゃないのに、事故扱いされた」と言って憤慨して見せ、事故から一ケ月近くたってから

もビラを作って目撃情報の提供を呼びかけ再捜査を求めていた。その畠山が彩香ちゃんと仲の良かった豪

憲君(当時7歳)をも殺害することになった心理については謎である。はっきりしていることは畠山の豪

憲君に対する殺害事件がなければ、彩香ちゃんの死の真相が顕になることはなかったということである。

結果的に警察は畠山に騙されていたということになるので、初動捜査のあり方が問題とされ批判に晒され

ている。彩香ちゃんは事故死であるとの当初の判断には不自然な点も多かったようだし、畠山の嘘を警察

が見抜いていれば豪憲君の死はなかったのであるから責任が問われることは当然である。しかし私があえ

て問題としたい点は、なぜ警察が畠山の嘘を見抜くことが出来なかったのかということである。畠山が狡

猾であったからか、それとも秋田県警が無能すぎたのか。それらも原因の側面としてあるのかも知れない

が、問題の本質は警察の捜査が“母性”に対する社会全体の思い込みや共通認識に引きずられてしまうと

ころにあるように思われる。彩香ちゃんが事故死ではなく外部の人間が関与する犯行であるならば、必ず

抵抗のあとや犯人の遺留品が残されるはずである。これは逆に言えば事故死のように見せかけて殺害する

ことが出来る人間は母親である畠山以外にはあり得ないということだ。だから当然、警察は畠山に疑いの

目を向けなければならなかった。しかし全ての母親には母性本能があるから子供に対して無上の愛情を持

っているはずだ、まさか我が子を殺すことなどあり得ないというような思い込みは、怠慢の習性も手伝っ

て簡単に事故として処理させてしまう。畠山が警察に再捜査を求めていたことは自らの犯行の偽装工作で

ある。しかしもし我が子に手をかけたことに対する良心の呵責の表れであり逮捕して欲しいという無意識

のメッセージでもあったならば豪憲君はそのために犠牲になったことになり、あまりに哀れで言葉もな

い。しかしこの事件が我々に突きつける本当の恐ろしさは未だに事故死として処分されたままになってい

る母親による子供の殺害は他にも結構あるのではないかと思わせるところにある。

“母性”についてフェミニストは文化的、社会的に作られた概念であって生得的なものではないと主張す

る。そして歴史的に見ても母性神話が女性にのみ子育てをさせ家庭に閉じ込めてきた原因であると批判す

る。私はフェミニストではないが、それらの意見に対して基本的に賛成だ。母性本能に相当するような遺

伝子が女性に組み込まれているから子育ては母親の方が適しているという考えには疑問を感じる。そのよ

うな考え方は結局、性、肉体、遺伝子と単一の物質へと還元していく方法であり、昆虫ならともかく文化

的な営みの中にある人間に当てはめるには無理があるように感じられる。“母性”というものは、母親を

とりまく人間関係や社会的な道徳規範、家庭環境、教育、情報など複合的な要因によって作られると考え

る方が自然である。また、国家的な時代背景のなかで“母性”がジェンダーを押し付けるものとして利用

されてきた歴史や今日のように男女共同参画が強く推し進められる状況で“母性”の地位が相対的に低く

なる推移を考えると“母性”は絶対的な真理として学問的に究明されるべきものというよりも、“母性”

をどのように考えれば社会がより安全にそしてより効果的に機能するのかという観点から考察されること

に一層の重要性があると言えるのではないか。要するに共通認識のあり方の問題なのだ。その上で私が考

える今日的な問題は、家庭という枠組みの中においては女性労働の社会へのより一層の活用という方向性

において子供を育てる“母性”への評価が低くなるのは止むを得ないとしても、いざ離婚ということにな

るとどういう訳か反転するするかのごとく“母性”の地位が高くなるということである。親権について、

子供は父親のもとより母親と暮らす方が幸せだという強力な社会的思い込みが厳然と生きている。しかし

それは制度の硬直や歪みを追認するための考えであり思い込みであるに過ぎない。現実に離婚後の共同親

権が認められていないのは先進国のなかではイギリスを除いて日本だけだ。共産主義体制の中国ですら共

同親権を認めている。日本の離婚と親権の現状は、女性の自立を促すための政治活動や離婚後に行政上の

経済的な支援を確保するための法律とそれらにまとわる利権に密接に結びついたものであり社会全体の総

体的な価値に基づいていない。バランスを欠いているのである。

私は畠山鈴香の事件の原因は彼女の人格の特異性にあるのではないと思う。畠山が彩香ちゃん殺害の動機

について「疎ましかった」と言っているのはおそらく本心だったのではないのか。生活がすさみ、心がす

さんでくると誰だって一度くらいはこの子さえいなければという思いに駆られることがあるはずだ。それ

なら畠山のように越えてはいけない一線を越えてしまう人間が現れることは何ら不思議はないということ

になる。母性本能は環境の積み重ねの中で作られもし、また喪失するものだと考えなければいけない。畠

山は彩香ちゃんの食事も作らず学校行事にもほとんど参加していなかったということである。日本が諸外

国並みに共同親権が認められている国であるなら、そして父親やその親族が子供の暮らしぶりを見てこれ

はいけないということがわかれば、子供を引き取りこのような悲惨な事件を回避することも出来たはずで

ある。親権というものが本当に子供の権利あえていえば子供の命を守るものなら固定的なものではなく、

もっと柔軟性があるものでなければならない。日本の単独親権はおそらく頭の固い年老いた民法学者たち

が自らの権威を守るために旧態依然とした説に固執し、政治家は新しい利権を作ることと選挙に勝つため

の票作りの事しか考えていないのでそれ以外のことはまったく無視されていることなのだ。犠牲になるの

はいつも子供たちである。日本ほど建前と実態の乖離が弊害になっている国はないのではないか。日本は

偽善国家だ。だから対外的にも信用されないのだ。日本の硬直化したシステムは私に言わせれば子供を見

殺しにする社会装置である。そして一番の問題は日本全体がそうは思っていないということにある。