龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

瞑想


私は、息子が生まれた時に自分自身がもう一度この世に生まれたような喜びと感動を味わった。もうすぐ

6歳になる息子に私は今まで、文字の書き方や足し算、引き算それから水泳などを一生懸命に教えてき

た。ひらがなの“あ”という文字は我々大人にとっては、何ということはないひとつの記号に過ぎない

が、5歳の子供が書くと春の日に萌え出づる若葉のような生命力が芸術のように溢れ出す。息子の書くへ

たくそな字を見ているだけで胸にさっと光が差し込んできて、天に祝福されているかのような思いだっ

た。私が息子に接し何かを教える行為は愛する息子のためであると同時に、私自身がもう一度息子と同じ

視線で人生を学んでいくプロセスでもある。一般的には理解され難いかも知れないが、それは私にとって

宗教的とさえ言えるような深い意味を持っているのだ。


その息子とこの一ケ月ほど会えない日々が続いた。事情については現在係争中の事件との関連があり具体

的には書けないが理不尽極まりないものである。妻とは2年以上にわたって別居中であるが、住宅費、養

育費、その他生活費全てを私が負担し続けてきた。その上で仕事が終わってから週に何回か息子に勉強を

教えに行っていた。それがある事情で息子と会えなくさせられることとなり、それからというもの私は箸

を持つのも、トイレットペーパーを巻き取るのもおっくうなほど元気がなくなってしまった。家庭に敗れ

た男たちがするように酒で孤独や寂しさを紛らせようとも考えた。私は酒好きな方なのでそれは魅力的な

考えではあったのだが、結局その方法は選ばなかった。理由はあまりに凡庸すぎるからだ。などと言うと

凡庸を馬鹿にしているように受け取られるかもしれないが、そうではない。私はこれまでの人生で寂しさ

から逃れようと人並みなことをしてろくなことがなかったのだ。正直なところ結婚がその最たるものとも

言える。しかし自分には子供を持つ資格などないと若い頃より考え続けてきた私のような人間が人並みに

親として子供への愛情を持つことができたのは結婚のおかげであり、また子供と引き離される悲しみを人

並みに味わうことになったそもそもの原因もまた結婚であるなどと考えると、人並みという言葉に対して

何かしら感慨深くそして複雑な気持ちにもなる。

それで私が子供に会えない苦しみを鎮めるためにした行為が瞑想だった。瞑想は以前から気が向いたとき

に、たまに行っていた。しかし、たいていは10分ほどすると睡魔におそわれてごろんと横になって寝て

しまう有様だった。しかし今回は、子供に会えない悲しみと引き離された怒りが私の体の中心で魂の痙攣

のように震えており眠気を感じることはまったくなかった。寝る前に瞑想し、夜中に起きて瞑想し、朝早

く起きて瞑想していた。僅かな時間を見つけては瞑想に耽ってた。そうでもしないと耐え切れなかったか

らだ。時間がやすりのように私の心の最も柔らかい部分を削り取っていくような苦しみだった。瞑想と言

っても正統的な型や呼吸法などまったく知らない。壁を背にして腰に枕をあてがい胡坐を組んで座る、そ

して目を瞑りひたすら心の目で闇を見続ける、ただそれだけの行為である。闇を見続けることは私にとっ

メメント・モリ(死を想え)や空海の「生のはじめに暗く、死の終わりに冥い」と言った言葉を想起さ

せ、その境地をイメージして没入していくことでもあった。話しはちょっと逸れるが、私は瞑想という言

葉から思い出すことがある。随分以前の話しになるが私は20代の頃東京に住んでいた時に、アメリカの

映画監督デビッド・リンチの絵画展を見に行ったことがある。デビッド・リンチは映画監督になる前は画

家を目指していたらしい。暗いグレーに塗られた背景にナイフで画布を切り裂くように数本の線のみで人

間らしきものが描かれている、それが彼の絵だった。そしてタイトルは“子供が死んで悲しみのあまり発

狂する母親”とか、確かそのようなものだったように記憶している。いまいちはっきりしないが、その時

のパンフレットに書かれていたことだったと思うのだがデビッド・リンチは当時、毎日朝と夕方に40分

ずつ瞑想していたらしい。彼の言葉によると闇の奥にあるものを見ようと努めていたらしい。それが彼の

表現する作品世界の源泉になっていたのだ。私は瞑想しながらデビッド・リンチの絵や彼が瞑想していた

ことを思い出し、自分にもどこか通じるところがあるのかなと考えたりもした。それで、そうやって日々

瞑想を続けていく内に心境の変化が起こってくる。心の中心が凪いだ平和な海のように静かになってくる

と、(突発的に怒りに駆られて馬鹿らしくなり瞑想を止めてしまうことも何度かあったが)この先二度と

息子に会えなくてもそれはそれで仕方ないではないか、息子には息子の人生がある、私の人生と息子の人

生は別のものだなどと考えるようになってくるのである。このままあと何ヶ月か瞑想し続けると、あれ

っ、俺には本当に子供がいたのかなと考えてしまうのではなかろうかと思わせるものがあった。私はまだ

離婚にまで至っていないが、なるほど離婚する男の心境の変化とはこういうものかと納得したりした。ほ

んの数日前には息子とよく手をつないで歩いた歩道を一人で歩き息子の手の感触が蘇ってきて感傷的にな

っていたのが嘘のようであった。また瞑想していると、もともと私は家庭団欒などとは縁のない人間であ

り、こうやって孤独の中で詩をつくったり瞑想したり考えたりすることこそが自分の為すべきことであ

り、人生で少し遠回りして本来の居場所に帰ってきただけだと考えるとやるせないような、それでいてど

こかほっとするような何とも言えず妙な気分になったりもした。

ところが事態の変化があり、急にまた以前と同じように息子と会えることになった。神の力が働いたので

はないかと感謝の念すら湧いてくる。現実には弁護士が介入してのことなので当然だとも言えるのだが私

にはとても不思議に感じられた。瞑想が生み出した別の現実を見たように思えたからだ。瞑想は精神世界

の中で時間を凝縮させ、短縮されたものとして体験させる力を持っているのではないだろうか。漫然と暮

らしていれば子供への執着から離れ、会えない悲しみから癒されるのは何年もかかっていただろう。そし

て、その苦しみを通過しなければ私にとって息子との再会はあり得なかったような気がする。再会は10

年後であったかも知れないし、もしかすれば来世であったかも知れない。しかし瞑想で時間を超越したた

めに、私の人生で新たな展開を一旦は見せ始めていた現実がしゅるしゅると音をたてながらきまり悪そう

に元の姿に戻っていくように感じられたのだ。だが、客観的には全て結果論であり個人的な解釈の問題に

過ぎないとも言える。また私の感じ方が大げさすぎる部分もあるのかも知れない。しかし私自身の内的確

信をもって言えば、時間は意識と密接に関係したものであり絶対的なものではなく相対的なものだ。たと

えば、ひとつの事象の原因と結果を発生させる世界を考えるとする。過去から現在そして未来へと等間隔

で一直線に延びてゆく時間の中で発生する物理現象として見た場合のありふれた絶対的かつ客観的な世界

と、観察する人間の意識から生まれ伸びたり縮んだりする時間の中で起こる相対的かつ主観的な世界は矛

盾することなく隣り合って存在しているように思われる。我々の人生のドラマのひとこまとして起こる出

来事の原因と結果は本当は別の次元では同時に発生しているのかも知れない。しかし我々は原因と結果の

間に時間と言うフィルターを通して連続した物語として見ないことにはものごとが理解できない。よって

我々はそれぞれの魂の問題を絶対的かつ客観的な物理世界へ一旦翻訳することによって発狂を免れると同

時に、自らに固有の内的世界を誰もが理解し得る共通世界に順序だてて映し出しているだけなのかも知れ

ないのだ。そのように考えて真剣に瞑想に取り組めば現実はそれほど敵対的なものでも強固で不変なもの

ではないことが理解できるような気がする。結局、自分に起こる現実は全て自分の一部なのだ。自分の一

部として起こる現実を時間と言う枠組みを通して段階的に体験するか、ひとつのデザインとして一瞬のう

ちに認識するかの違いである。そして瞑想によってデザインとして認識する道が開けてくるのであり、時

間の束縛から自らの生を解放することも出来るのではないだろうか。時間が解決してくれるとは一般によ

く使われる言い回しであるが、認識によって解決する方法は時間をも超越しているのである。反対に言え

ばある自己認識に至るまで人間は一生同じことを繰り返さなければならない運命にある。回転木馬に乗っ

ているようなもので見える景色(自分に起こる出来事)はいつも同じである。自らを知るということはど

こまでも深く、はてしない道だ。


まあ、そのような偉そうなことをいくら言ったところで、私は妻と弁護士を通して今後とも争い続けなけ

ればならないと言う泥沼の現実が変わることはない。はっきり言ってとても憂鬱だ。子供とはいつまでも

会い続けることが出来るのだろうか。私の現実は、あまりに人間的なドロドロの紛争劇と超現実主義者が

描く絵のように遠近や時間が歪んでいるような風変わりで静寂な空間が重ねられ透かされて構成されてい

る。誰にも理解されないだろう。そんなことは百も承知だ。理解されなくともかまわない。ニーチェが言

ったように、理解されないと言うことが唯一の矜持だということもあり得るのだから。私という人間はた

とえ理解されなくとも存在そのもので他者に安心感を与え、時にユーモラスでさえあるだろう。それでか

まわない。それが私の人生だ。