龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

『ストーカー』

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“ストーカー”と言っても付きまといのことではない。アルカージーストルガツキー&ボリス・ストル

ガツキー兄弟によって書かれた旧ソ連の有名なSF小説である。原題は『路傍のピクニック』という。1

979年にアンドレイ・タルコフスキーによって映画化され『ストーカー』というタイトルが付けられ

た。ストーカー(stalker)の本来の意味は、“獲物を追う人”であるが、この小説の主人公レド

リック・シュハルトは、異星の来訪者が地球にさまざまな物品を残していった地帯(ゾーン)に命がけで

侵入し、それらのブツを持ち出して売り捌くことによって生計を立てている。そのような非合法な職業を

生業とする密猟者たちを“ストーカー”と呼んでいるのだ。異星の超文明が残した痕跡であるゾーンでは

何が起こるかわからない。<蚊の禿>と呼ばれる重力凝縮場に踏み込めば、骨どころか痕跡すら残らなく

なってしまう。<蚊の禿>を避けるために10メートルほど手前からボルトを投げてその落ち方を観察す

る。<蚊の禿>でのボルトの動きは、不意にひったくられたように落下の軌道を脇へ逸らし粘土の中へ8

キロもある分銅のようにずぼっと、もぐってしまう。そうやって危険を冒しながら<空缶>やら<魔女の

ジェリー>、<死のランプ>など様々な符牒で呼ばれるブツを持ち出す。そこで手に入れる未来の知識に

よって暮らしは変わり、誰も彼もが豊かになれると信じているのだ。それらのブツの中に伝説の<黄金の

玉>というものがある。その玉は人知れず胸のうちに秘めている願望、適えられなかったら、にっちもさ

っちもいかなくなるようなぎりぎりの望みを適えてくれるという。この小説は主人公レドリックが、スト

ーカー仲間でゾーンで両足を失った男の息子であるアーサー・バーブリッジとともに<黄金の玉>に対面

するシーンで終わる。SF作品として超常世界を背景にしているが、超常を相手にしながら自らの生活を

守ろうともがく人間そのものが描かれている。そこに共産主義イデオロギーが微かに匂う。レドリック

は逮捕されて2年半ほど服役する直前に、無一文になってしまう女房と娘の身を案じて取引相手に隠して

いたブツを交渉材料にして面倒を見ることを約束させる。レドリックが出所した時には、娘の<モンキー

>は口が聞けず、理解力をも失ってしまっている。ストーカーは異常者であり、ストーカーの子供は先天

的に奇形児であったり超能力を備えていたりするのだ。また、レドリックの父親は生き返った死人である

<ゾンビー>になっている。望みを適える<黄金の玉>を前にしてレドリックの次のセリフでこの小説は

終わる。


おれは動物だ、このとおりおれは動物だ。

おれは喋ることができん。ことばを教えてくれなかった。おれは考えることができん。やつらはおれに考

えることを教えてくれなかったからだ。

だが、もしおまえが、本当に全能で・・・・・全知で・・・・・なんでもわかっているんだったら・・・・・自分で解い

てみろ!おれの魂を覗いてみるんだ。おまえに必要なものが全部そこにあるはずだ、おれにはわかってい

る。必ずそうだ!おれは一度だって誰にもこの魂を売り渡したことはないんだぞ!これはおれの魂だ、人

間の魂なんだ!さ、そっちで勝手におれが望んでいるものをおれから引きだしてみろ、おれが悪を望んで

いるわけががないんだ!・・・・・そんなことはどうだっていい、おれはなにも考えることができんのだ、や

つの言ったあのガキっぽいことばしか・・・・・すべてのものに幸福をわけてやるぞ、無料で。だから、だれ

も不幸なままで帰しやしないぞ!


<黄金の玉>を神に置き換えて考えることもできると思われるが、確かに全知全能の存在を前にしたとこ

ろで自分の魂が何を望んでいるのかとなると、よくわからない。ロト6で1等を的中させて億万長者にな

りたいとか、若くて綺麗で心優しい女に愛されたいとか思わないではないが、何かの間違いで万が一その

ような状況に自分がなったとしても、はたしてそれが本当に自分の魂が望んでいることなのか、言い換え

れば本当の自分自身を表現しているのかとなるとよくよく考えて見ればそうでもないような気がする。欲

望というものは本来的に備わっているものはごくわずかで、ほとんどは外部で作られ押し付けられたもの

を自分の中から生まれたもののように勘違いしているのではないか。私も神を前にして、さあこれが俺の

魂だ、ここに全部そろっているから勝手に覗いて好きにしてくれ、と言ってみたい。自分で覗いてみても

今一よくわからない。私もまた他者と同じように深い部分で洗脳されているのだろうか。誰かが感ずるの

と同じように感じ、誰かが欲するものを私もまた欲するようにと。以前、社会学者の宮台真司さんが何か

の対談で、前後の文脈はまったく忘れてしまったが、真夏の暑い日にはエアコンのよく効いた部屋で冷た

いビールを飲みながら本を読むことができれば幸せだ、というようなことを言っていたが私もまったく同

感だ。暑いのや寒いのや苦しい、ひもじいなどの生理的不快、身体的苦痛がなくて心穏やかに過ごすこと

が出来れば基本的に幸せでそれ以上のものはいらないような気もする。主人公レドリックがいう「人間に

金が必要なのは、金のことを心配しなくてすむようになるためだからだ」の言葉が新鮮だ。当たり前のこ

となのだが資本主義的システムの中に置かれた生活では、その当たり前が見えにくい。1年ほど前のこと

だが、私があるチェーン店の焼き鳥屋のカウンター席に座っていた時の光景である。串を焼いている店員

に電話が掛かってくる。そうすると、その店員は客から見えないようにしゃがみこんで2~3分話し込ん

でいる。それからまた串を焼く。しばらくするとまた電話が掛かってきて、同じようにしゃがみこんで何

やら真剣に話している。その繰り返しが私が店にいる間に4回ほどあった。電話は計ったように約20分

間隔で掛かってきていた。3回目位になると大体の見当はついてくる。おそらくは消費者金融の取立てな

のだ。前で見ていて私は気の毒になってきた。回りの客も同じように感じたのか「おい、どないしてん。

大丈夫か、ややこしい電話か。」とか聞いていた。それが9時になるとその電話がぱたっと止んだ。私は

その時(ああこれがコンプライアンスの遵守というやつか)と思ったのだが、取り立ての規制内容につい

ては定かではない。借りた金を返し、貸した金を取り返すのは市場における当然のルールであり法律上は

貸主と借主は対等であるとも言える。しかし精神的な優位性で見れば比べようがない。私が見た焼き鳥屋

の店員のように追い詰められれば、まともにものを考えることが出来なくなるだろう。読書をしたり映画

を見たり、美しいものを鑑賞するような精神状態からはるか遠くへ隔てられてしまう。時間や精神が搾取

されるというのは私にとっては何よりも恐ろしいことだ。別に資本主義の悪口を言うつもりはない。しか

し戦後の高度成長期における高度消費、物質至上の経済から人間の精神性を土台にした経済へ、考えない

社会から考える社会へと転換させてゆくスキームが必要ではないかと思うのだ。当然、教育のあり方は最

も重要だろう。私の世代は子供の頃は、偏差値の高い高校や大学に入って一流企業に就職し、結婚して家

庭をもち子供を儲けるという暗黙のコースのようなものがあった。その図式を根底で支えていたものは全

て物質と金だったのである。今日そのような図式は崩壊してしまった。だからといって勉強しないでいい

わけではないだろうし、働かなくていいわけでもない。中学1年生の私の姪は、勉強しなければならない

理由がわからないと言っているらしい。そのように感じている子供たちは多いのではないだろうか。勉強

することの意味を社会全体が見出せていないからだ。社会が方向性として持ち得ていないものを一介の教

員が示し得るわけがないのだ。学び、感じ、考えることが人生を豊かにしていくためのツールとしてもっ

とダイレクトに実感できるような社会にしていくべきだと思う。話しは逸れてしまったが、結局全てはい

かに生くべきか、そして自分が生きる社会がどうあるべきかに流れ着くということを言いたいのだ。

脱線ついでに言うと『ストーカー』を読んでいて、1996年1月26日に地元でUFOらしきものを目

撃したことを思い出した。午前中、見慣れた空に低くパチンコ玉大の丸く黒い影が1~2分にわたって静

止して浮かんでいた。その内に流れてきた大きな雲に隠れてしまった。今、思い返せばあれはあれで詩的

な光景であった。しかしわたしは当時、三島由紀夫の『美しい星』という変な小説世界に耽っていたの

で、頭がちょっとおかしくなっていて幻覚を見たのだと思われる。私は基本的に素直というか、はっきり

いって馬鹿なので何にでもすぐに影響されてしまうのだ。大正時代の天才画家、詩人である村山槐多は2

2歳で肺結核で死んだが、最期の言葉は「飛行船のものうき光」であったという。薄れゆく意識の中で死

の間際に槐多が見たものは一体何だったのだろうか。コンビニで買ってきたギネスビールを飲みながら秋

の夜長に私は一人、そんなことを考えている。

ハヤカワ文庫『ストーカー』