龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

日本語表現の微妙な違いについて


日本語表現についての微妙な違いについて考えさせられた記事、番組があったのでそれらについて私見

述べたい。先ず10月9日朝日新聞天声人語にて明治末年、夏目漱石の門下生に日本語を研究するロシア

大富豪の御曹司であるセルゲイ・エリセーエフという若者がいて、彼が漱石の作品を翻訳しているときに

「庭へ出た」と「庭に出た」はどう違うのか疑問を持ち質問したところ、文豪である漱石も答えに窮して

しまった、という内容であった。

映像に変換して考えてみるとわかりやすいのではないだろうか。私のイメージに即していえば、「庭へ出

た」は廊下を颯爽と歩いている男の足元が映し出されている。それから画面は切り替わり紅葉の美しい禅

宗寺の庭が現れるというものである。それでは「庭に出た」はどうかというと、最初に紅葉の美しい禅宗

寺の庭の風景が映し出されていて、そこに渡り廊下を歩いてきた男が姿を現すという映像が浮かぶ。この

場合「へ」と「に」の前置詞だけではなく「出た」という動詞との組み合わせで考えないといけないよう

に思われる。「出た」は移動を表す動詞であり、AからBへ移動するとすればAではなくBにすなわち

「庭」に意識、視点が立脚している。一方、「へ」は英語でいえばgotoのtoであり方向を示してい

る。「に」はinやatのように場所を表している。「庭へ出た」も「庭に出た」も美しい庭を見ること

に変わりはないが、「庭へ出た」はA地点から歩いてきた残響というか余韻のようなものが含まれてい

る。「庭に出た」には、それらがない。たとえば「出た」ではなくて「行った」で考えてみると「行っ

た」では「庭」は目的地となる。視点は出発点のAにありそこから「B=庭」までの移動、方向が「行

く」という動詞で強く明示されるので「庭へ行った」と「庭に行った」の「へ」と「に」の前置詞の微妙

な違いが消されてしまっている。よってセルゲイ・エリセーエフが漱石に質問したのが「庭へ行った」と

「庭に行った」ではなくて「庭へ出た」と「庭に出た」の違いであるということに彼がいかに真剣に日本

語を勉強していたのかということと、その真面目な人柄がよく表されているといえるのではないだろう

か。


もう一つは昨日のフジTVの『タモリジャポニカ アナに試験』で男が浮気をした時に女がいう「許さ

ない」と「許せない」ではどちらの方がより怒っているかという質問だった。答えは「許さない」とのこ

とであり国語学者が出演していて解説していたが、解説内容は忘れてしまった。番組やその国語学者にけ

ちを付けるつもりはないが、ちょっと納得いかない。口語表現を文章に変換するとわかり易いと思われ

る。「許さない」は「私はあなたを許しません。」となる。これは言葉も感情も相手に投げかけられてお

り、一方的に宣言されているものだ。また感情が外面また対象の男へと噴出している。「許せない」は

「私はあなたを許すことが出来ません。」であり、言葉は相手に投げかけられているが感情のベクトルは

男ではなく自分自身に向っている。「許せない」は自分に対して言っている言葉であり、感情が内面化さ

れているのである。「許さない」の方が感情が外に現れている分だけ、一見より怒っているような印象が

あるがそれは皮相的な見方というべきではないのか。「許さない」と「許せない」の違いは私の解釈では

感情のベクトルの向きの違いであって、感情の強度とは無関係だ。よって設問そのものがナンセンスだと

言いたい。バラエティ番組だからどうでもいいじゃないかと言われればそれまでだが。

「許さない」と「許せない」の違いを怒りの強度ではなく、コミュニケーションの視点から見たほうが有

意義で面白いと思われる。「許さない」といわれれば口答えしてはいけない。ああそうですかと黙ってい

る以外にない。2~3日経てば相手は忘れているようにも思える。しかし「許せない」と言われれば黙っ

ていてはいけない。一応「どうして」と聞いてあげなければならない。「だって、それは」と返答が反っ

てくれば「いや、それは君の誤解だ」と会話が成立する。相手の気持ちが和らぐか、火に油を注ぐことに

なるのかは私の知ったことではない。しかし「どうして」と聞いて相手が沈黙したり「許せないものは、

許せない」などといわれれば、ああ本気で怒っているのだなとその時初めてわかるのである。日本語の微

妙なニュアンスの違いは難しい。現実にはそこまで考えていれば、話すことも書くことも一切できなくな

るのであまり意味がないようにも思える。でもよくよく考えればそういうことになるのではないかと言い

たいだけなのだが、正直なところそれほど自信があるわけでもない。