龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

議論のための議論


それでというか前回からの続きであるが、私は前回討論番組が嫌いだと書いたが何故かと言えば結局のと

ころ議論のための議論が嫌いなのである。見掛けとは裏腹に本気で変革に導いていこうという気持ちがな

く、本当は心のどこかでは現状を維持したいと考えているのではないかという風に見えてしまうものが嫌

いなのだ。実際に出演者は誰一人として本気で日本を変えようなどと馬鹿なことは考えていないであろ

う。しかし、それはTVというものの性質上やむを得ないものである。TVの本質は全てがやらせとは言

えないにしても、ショーアップであり見せるためのものであることは確かであるからだ。また放送の自主

性と公正、中立を重んじ政治的な道具になってはいけないという大前提がある。それはよくわかるのであ

るがTVの世界と日本の現状が、いわば虚構と現実が私には重なって見え、中心を喪失した空虚な堂々巡

りが永遠に続くように感じられてとても鬱陶しくなってくるのだ。

司会者と10人ほどの出演者が明け方まで熱く討論し続ける番組があるが、あれは私にとって日本という

国家の鬱陶しさの象徴のようなものである。徹夜で討論なんかするな、徹夜は試験勉強と麻雀だけで十分

やと叫びたい衝動が私の内部で燻る。たまに後ろの方の見学者の席にとてもキュートな女の子が雛壇の雛

人形のようにちょこんと座っているのが面白くてこれまでに何度か、文字通り眠たい番組を眠たい思いを

しながら見たことはあったが、もうさすがにまったく見なくなってしまった。あのような番組がこれから

たとえ1万年続いたところで日本という国は何一つ変わらないだろうというような絶望的な気持ちになる

からだ。それなら十分な睡眠を取ったほうが個人的には割りに合うのである。何ていうか、あの番組は鄙

びた片田舎の通夜の風景を思い起こさせる。傍らに死者がいて、近親者たちが楽しそうに思い出話をしな

がら酒を酌み交わしているのである。それでは、その“死者”とは一体何なのだろうかと考えてしまう。

話しが危険になってきた。こんなことを言う私はやはり民主主義の敵で排除されるべき存在なのだろう

か。まさか暗殺されることはないと思うが。

続きは次回にしよう。

終生、映画を愛し続けた淀川長春に敬意を表して

さよなら

さよなら

さよなら。