龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

戦争と平和


結局やな、私が言いたいのはこういうことである。

討論というのは社会全体が進むべきある一定の方向性が決まっている上で、その最善の具体策を模索する

ことに意義があるのであって、方向性のないところに討論も何もないではないかということである。たと

えば戦争か平和かなどという討論は、人間は誰でも痛いのがいやであり本能的に生を維持しようとするも

のであるから戦争より平和の方がいいに決まっている。それは人間存在の個としての生物学的真実である

といえる。しかしそこに国家や権力、宗教、イデオロギーなどが絡むから話しが複雑になるのであるが、

戦争を回避して平和を維持するのが社会全体の暗黙の了解事項であるとしてもその目的を真に成就するた

めには戦争か平和かなどという二者択一的な討論からは何も生まれないはずである。神は存在するか、し

ないかという論争と同じで千年続けたところで簡単に答えが出るものではない。私が批判する議論のため

の議論というのはそういうことである。

誤解を恐れずに言えば、国家というものは本来的に戦争へと向うものである。言い換えれば戦争の可能性

を含んでいるからこそ国家といえるのである。たとえば、大きな河川があるとする。河川は時に氾濫を起

こし大きな災害をもたらす。氾濫を防ぐためには堤防を築かなければならない。しかしいずれ堤防は決壊

し河川は氾濫する。それでは堤防の高さをどんどん積む上げていけば氾濫の可能性がなくなるかといえば

そうはならない。なぜならその堤防が許容し得る能力以上の雨水流入があれば必ず河川は氾濫するからで

ある。河川は氾濫するからこそ河川と言えるのであって、氾濫の可能性をゼロにしようと思えば水の流れ

をせき止めなければならない。しかしその時に、河川は河川でなくなってしまうのである。国家もまた同

じである。絶えず戦争の可能性とともに生きていかなければいけないものであって戦争の可能性がゼロに

なった時に国家は国家でなくなるのである。あえて極論を言えば日本という国家が平和的にアメリカの一

州になれば、あるいは中国の一部になってしまえば日本という統治機構が消滅するわけだから日本が戦争

を起こす可能性はゼロになる。しかし人間は存在し続けるし、国土が消滅するわけでもない。言語も変わ

らないであろうし、せいぜい通貨がドルになったり元になる程度で案外国民生活そのものの変化は少ない

のかも知れない。企業のM&Aと同じで統治者が変わるだけだと乱暴な言いかたをすることが出来ないわ

けでもないのである。恐ろしいことを言うなと叱られるかもしれないが、今の日本にはそれでも構わない

と言い切る人間が想像以上に多く存在するのではないかと私は思うのだ。現に特に政治的な人間ではない

私の知人の一人が、それでもいいよと本心で言っていたのを聞いて少なからずショックを受けたことがあ

った。もちろん私はいやである。アメリカ人でも中国人でもなく日本人であり続けたい。それはすなわち

私にとっては、日本という国家がゼロにはなり得ない戦争の可能性と共に生き続けるということであって

権力や反権力あるいは右翼や左翼というイデオロギーの対立以前の切実な願いであるのだ。左翼主義者が

主張するところの権力というものは絶えず暴走する性質を孕んでいるという危険性が、これからの日本に

どの程度の可能性として存在するのか予測はつかいないが、そうであればこそ戦争と平和、資本主義対共

産主義、暴力か愛かなどというような不毛な二項対立的な冷戦下の思考スタイルを一刻も早く卒業して、

現実的で中庸な解決策を見出すための出発点といえる意識レベルに一人でも多くの国民が到達するべきで

あると私は考えるのである。なぜなら、それが最も強固な防波堤であると思えるからだ。

私がこのブログのタイトルに掲げている“日本を変革する”の意味するところは“新しい日本の意識を作

る”ということなのである。“ジャポニカ・ヌーヴォー”と呼んでくれ。

長くなるのでまた次回、それではアディオス。