龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

生きること、書くこと 1


私にとって、“生きる”ということの困難さは“大衆”というものといかに付き合うかということであ

る。といっても“大衆”の定義とは何ぞやと聞かれれば私自身よくわからない。未組織の大多数というこ

とであるなら、おまえもまた“大衆”の一部じゃないかと言われれば否定しようがないのも事実なのだ。

しかしそうであれば“大衆”というものをこれほど私が意識することにならないはずであるから私はやは

り“大衆”という絶対多数にとっての異物であり外部であると結論付けざるを得ない。この異物感や疎外

感がこれまでの人生においてどれほど私を苦しめ続けてきたことか。私の奥底には奴らに対する鬱積した

感情がある。奴らの特質は何よりも考えないということだ。多数に寄り添っているだけなのに自分の頭で

考えているように錯覚している。それにもまして自分を善良な人間だと考え少数者を無意識に排除する。

はっきり言って反吐がでそうだ。しかし奴らとは特定の誰かではない。奴らとは全体であり、雰囲気であ

り、拭い去りがたく纏はりつくものだ。私が日本人でありナショナリストでありながら在日の人間と波長

が合うのはそういうところにあるのかも知れない。ある意味で、私は在日の人間以上に内部の外部なの

だ。とは言っても私もそう若くはないし、人間の付き合いが機械的なものである(要するに基本はギブア

ンドテイクであり何かを無償で相手に期待してはならない。)ということはわかっているつもりである。

だから、たとえば仕事上において初対面の人間に対して哲学的で晦渋な話題を持ち出すようなことはしな

い。それほどの馬鹿ではない。彼らが話すような言葉で話し、彼らが考えるようなレベルで考えようとす

る。しかし奴らはとても敏感なのだ。私のような異物に対して本能的に反応してくる。もちろんビジネス

の話題だけではそうはならないが、仕事の付き合いで酒を一緒に飲むような場面を迎えると最悪である。

酒は、奴らの何かを鈍磨させ何かを鋭敏にさせる。私がどこか人と違うことを動物的に察知するのであ

る。そして爆発が起こる。私は意図せずに凡庸な人間の精神内部にささやかなビッグバンを起こしめるの

だ。何も語らず、何もせずにである。礼儀正しく、人並みに応対していても私という存在の根底からは、

奴らがこれまで信じ、そしてすがり付いてきたものを一掃してしまうような目に見えない光線が輻のよう

に放たれている。彼らは酒で心を開き、私という存在に相対することによって、ふと気付いた時には揺る

がされ追い詰められているのだ。そして反撃してくる.....本当にうんざりだ。ところが一定レベル

以上の知性を備えた人間であればそうはならないのである。私という人間を理解することはできなくと

も、私と相対することで傷ついたり蔑まれたようには決して感じない。静かな目で私を見つめ、静かな口

調でそっと語りかけてくる。一方、私の天敵は多数を信じ、当たり前を疑わず、人の良さと熱意だけで生

きのびているような奴らである。いうまでもなく今日の日本社会で真っ当に働き暮らしている8割から9

割がたの人間である。彼らは自分が無条件に信じているものを否定されたように感じると、そして暗黙の

内に自分の存在基盤を否定するかのように感じさせる存在に出会うとやみくもに支離滅裂な論理で刃向か

ってくる。たとえば私が犯罪者であったり、狂信的なカルト集団の信者であったり、精神科に通院歴があ

るような帰属がはっきりした男であれば彼らを安心させることができるのであろう。しかし、私にはその

ような帰属が何もないがゆえに奴らを不安にさせてしまうのだ。一旦、そのような事態になれば私に為す

すべはない。いきなり犬に噛み付かれるようなものだ。だから酒席などの初対面の人間との交わりの場

は、その場にいるだけで神経がすり減らされるような居心地の悪さを感じる。極端に言えば、人間の中に

宇宙人が混じっているようなものなのだ。はっきり言って私は大衆が怖い。人間は怖くないが、背後に控

えている大衆的な力がとても恐ろしいのである。先日、酒の席で年配の男性にこのように言われた。「君

はとても変わった考え方をする人間だ。でも、きちんと人と付き合うこともできるんだな。」と。捉え方

によっては、変わり者のくせによく平気で一般的な人間と人付き合いできるなという非難の言葉にも聞え

るし、あるいは標準からはるかに逸脱した考えを持っていながら一般的な人間と普通に付き合うことが出

来るのは立派だ、という賞賛の言葉にも聞える。しかし、男性の言葉はそのどちらにも偏っていなかっ

た。感じたことを攻撃的にならずに淡々と素直に述べるということは、知性の力が要求されるのである。

しかし現実的にはそのような人間はとても少数である。だから私は生き難いのだ。また、その男性からこ

のようにも言われた。「君には、どこか女性蔑視があるんじゃないのか。」私は答えあぐねてしまった。

女性蔑視に見られるということは、わからないでもない。しかし私の対象は女性ではなく大衆なのであ

る。それに大衆蔑視というものともちょっと違うのだ。私は自分自身を守るためには、大衆の中に紛れ込

んで多数と同じように考え感じることがとても危険であるということを経験的によくわかっているのであ

る。だから私は自己防衛の手段として大衆と自分を区別せざるを得ない必要性があるのだとも言える。本

当は私だけでなく誰もがそうであることは明らかなのだ。私は自分が特別な人間だ、などと言いたいわけ

では決してない。どうして人は人と同じように考え、感じるのだろう。寂しいからか、孤独が怖いからな

のか。それで一般的に女性というものは大衆と重なり合う部分が大きい。何もヒットラーを真似て「大衆

は女性である」などと嘯くつもりはないが、女性はいつもマジョリティーであり常識であり現実である。

女性の性がそれらを体現する根本は、やはり受胎する性であるという生物学的な要請に負うところが大き

いように思われる。だから私が自分を大衆と区別して自己認識するときに、大衆を象徴する女性を蔑視し

ているように見られてしまうのかも知れない。しかし私が1対1で相対するときに女は大衆を代表してい

ない。いい意味でも悪い意味においてもである。大衆というものを私に考えさせ、意識させるのはいつも

男である。何かしら薄汚い価値観を私に押し付け、時に殺意に近いものを感じさせる相手はいつも男であ

る。女は女性という集団になった時にマジョリティーを象徴し、権力を志向し、政治的にもなるのである

が、個においてはいつも制度(男)の嘘を見抜く目を光らせている。女と女性は異なるが、男はいつも悲

しいほど男性(社会性)なのだ。詩人と哲学者と芸術家は別にして。

大衆は男性なのである。

次回に続く。

「人は皆おのれの利のみを見て清浄ではない。犀の角のごとくただ独り歩め」

法句経 仏陀