龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

生きること、書くこと 2


それで前回の続きであるが、大衆について考えるということは“差異の意味”について考えるということ

である。私が日常生活において“差異の意味”を意識するのは“在日”の人々について考える時である。

それは私にとっての実存に関わっていることでもあるので私が感じるところの日本人と在日の人々との差

異と意味について書く内的必然性を感じるのであるが、その前に前提として述べておかなければならない

ことがある。私は、自分のことをナショナリストであると常々考えているのであるが、それじゃ“ナショ

ナリズム”とは一体、何やねんということだ。字義からして国家や民族と無関係でないことは明らかであ

るが、私は個人的に“ナショナリズム”を国家や民族の優越性という観点から考えているわけではない。

私にとっての“ナショナリズム”とは、いわば感性の有り様なのだ。何に対する感性なのかと言えば、そ

れは“生命”である。だから本来、国家や民族を超越しているべきものであるが、その超越から付随的に

国家を考えるというのが私の“ナショナリズム”である。具体的に言えば私は“生命”を自己完結的な最

終目標とは考えたくない。私にとって私の生命が、何にも変えがたいほど大切なものであることは否定し

ようのない事実であるが、それでも私は自分が死んだ後の世界の方が自分の生命より大切であると考えて

生きていきたい。もちろん死んでからものを考えることは出来ないから、そのように考えて生きてゆくと

いうことである。自らの生命を超えたところにある全体性に対して無私の気持ちを持つということだとも

言える。1970年、三島由紀夫が自決直前に自衛隊員に撒いた檄文にはこのように書かれている。「・・・・・・

生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか、生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊

重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。・・・・・・」

現世的視点から見れば生と死はコインの裏表であるとも言える。だから自らの死に様によって究極的に

“生”の意義を問いかけるという行為は、まぎれもなく無私の行為であり神聖ですらあると言えるのかも

知れない。しかし私に言わせれば、結局人間誰もがいずれは死ぬのである。病気で死ぬのも、割腹自殺で

あろうが戦死であろうと“死”は“死”であって、“死”そのもので何かを証明することは出来ない。三

島は天才であり、天才とは時間を超越した普遍的視点から絶対的価値を見出す人間である。彼が今日に至

る日本の退廃を予見していたのは明らかであるが、三島の“死”がセンセーショナルであった以上の価値

を有していたとは思えない。キリストの死とは本質的に違うのだ。しかし三島が“部分”ではなく“全

体”を見ていたことは確かである。我々もまた自決までしなくとも“全体”を見なくてはいけないのでは

ないのか。“生命”とは全体性の部分的顕現なのだから本質的に全体に対して責任があるのだ。全体の定

義が個人を離れたところの“家族”であっても“自治体”であっても“企業”であっても“地球”であっ

ても“銀河”であってもかまわないと思うが、少なくとも家族の問題も自治体の問題も企業の問題も国家

の問題の派生である以上、とりあえず国家を全体の基点として考えざるを得ない。“生命”に対する考え

を“国家”にとってプラスになるように変えていかなければならない。“権力”はまた別の問題だ、少な

くとも私にとっては。分離して合理的に考える必要がある。しかし今日的日本の思考からは、私が言って

いるようなことは“ファシズム的”だと批判される。戦争へと近づく思想だというわけだ。しかし果たし

てそうであろうか。雨が降れば、傘を差したりレインコートを着るのは当然であるが、世の中に傘やレイ

ンコートが存在するから雨が降るわけではないだろう。また、水不足だからといって天気の良い日に傘を

差したりレインコートを着たところで雨が降るわけでもあるまい。原因と結果を逆転させるなと言いた

い。感性や思考が取り締まられることによって一篇の“詩”が殺され生命力がそがれる。私にはそれが許

せない。

もちろん“戦争”など誰も望んでいないのは言うまでもないことであるが、日本の問題は“戦争か、それ

とも平和か”というような二者択一ではなくて日本人全体の“生命力”の問題ではないかと思われる。そ

れは結局、“生命”をどのように考えるかということに繋がる。“生命”を限定的に捉え、要するに自分

のことしか考えていないと、その思考が“生命”の本質から離れているがゆえに必然的に“生命力”は弱

くなるのだ。また“生”とは本来、猥雑物であって生的要素のみで構成されるものではなく死的要素も含

まれていなければならないと思う。たとえば暴力的なものに対する感性の生かし方である。また仏教的な

“空”を見つめることによってニヒリズムに陥ることなく“生”を活性化させるということも可能なの

だ。多様性だとか価値観だとか、吐き気を催させるような口当たりのよい言葉のもとで一律的に低次元で

“生命”を捉え、それを制度化して押し付けてきたがゆえに日本人の“生命力”は回復しようがないほど

弱まってしまっているのではないのか。いじめや虐待、親が子供を殺したり子供が親を殺すような事件の

根源は、おそらく生命力の衰退にゆきつくのだと思われる。生命尊重を社会全体の金科玉条としながら、

結果的に生命を薄っぺらで脆弱なものに日本社会全体のシステムがしてきたパラドックスが存在すること

がわからないのか。日本人の生命はいつからか“生命尊重”というキャッチフレーズが印刷された綺麗な

包み紙に包まれた、安っぽいスナック菓子のようになってしまった。生命は本来の力と地位を回復させん

がために今後とも我々に復讐を続けるであろう。ところで昨今の物騒で不可解な殺人事件は尽きることは

なく、特に小さな子供たちが犠牲になる事件は目を背けたくもなるがそれら事件の数々が一定以上に問題

視されることに歯止めを掛けようとする人々がいる。彼らが言うことはいつも判で押したように決まって

いる。「今の時代はマスコミが発達しているからそのような事件が目立っているだけで昔からあったんで

すよ。いや昔の方がむしろ多かったぐらいだ。今の子供は大切にされているから幸せですよ。」そうだろ

うか。いやそうかも知れないが子供が6人も7人もいて里子に出されるような子供も珍しくなくて、20歳に

なるまでに結核で死ぬ人間が多かったような時代と現代の社会的病理を単純に比較するのはおかしいじゃ

ないか。そのような発言を度々聞かされると、世間では私の知らないところで模範解答集なるものが出回

っているのではないかと考えてしまう。秘密結社のようなものが存在して毎週末には夜な夜などこかの集

会所に集い、今の日本はまあいろいろと問題もありますけどそれほどひどいものでもないのですよ、特に

子供たちの不幸について言及することはあなたたちのためにならないのですよ、と大衆に思わせるような

会合が開かれているのではないかと想像する。それじゃあ聞くがあなたたちは今の日本の一体何を守ろう

としているのだ。言ってみろ。