龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

生きること、書くこと 3


我々は“生の意味”ではなく“生の質”を問わなければならない。今、TVで霊能力者が誰かの前世を見

て教訓を与えるという番組が流行っているようだ。私も何度か見たことがあるが結局、前世を持ち出して

まで自分の人生をストーリー化させなければならないほど日本人全体の生命力が衰退しているということ

なのではないのか。“生の質”が充実していれば、誰も“生の意味”など問わない。そういう私も昔、二

十代の頃、東京で深い孤独と焦燥感のなか地獄のような精神状態に苛まれ手相見に見てもらったことがあ

る。その時にあなたの前世は仏教の修行僧だったと言われ、ああそうですかと思った。しかし今となって

見ればそれがどないしてんという感じである。前世が仏教の修行僧で、今世は世俗に紛れて生きることを

自ら選んだというわけか。しかし残念ながら私は上手く紛れていないぞ。退屈だ。結局そんなことはどう

でもいいことなのだ。わからないことはわからないとして不可知論的に生きなければならない。要するに

手相見に見てもらっていた当時の私は生命力が極端に低下していて元気がなかったということである。そ

して今日の日本全体がそういう状態だと言いたいわけである。別に番組の批判をしているわけではない。

日本人は、特に日本の男は“ニーチェ”を読まなければならない。生を高めるための必読書である。とは

言っても私もまだごく一部(「善悪の彼岸」、「ツァラストラはこう言った」など)しか読んでいないの

で偉そうなことは言えないが。余談だが、以前書店にニーチェの本を買いに行った時、売場の女の子にニ

ーチェを探しているんですけどと聞いた。すると店員のその女の子は、小鳥が雛に餌をやるような顔で

“ニーチャン?”と聞き返してきた。私は思わず、

「誰が、迷子やねん。」

「本屋で兄ちゃん探してどないすんねん。」

と、言いそうになった。

ニーチェ」ともう一度言ってみても、誰、それ?みたいな顔をしていた。

本屋で働いているんだったら、ニーチェの名前ぐらいは知っていて欲しいものだ。

長くなったので続きは次回にしよう。しかし何で私はこんな話をとりとめもなく書き続ける必要があるの

だろうか。一体、何のために。正直なところ時々馬鹿らしくなる。しかし書くという行為が私にとって私

の真実を晒し、宇宙に感応するための唯一の手段であるならば私はやはり生きるがごとく書かなければな

らないのであろう。そして私は書くことによって自らの魂を開き、爆発を起こす。芸術は爆発だ


「腸の中を押しやられる回虫のように、ぼくは地下の駅から電車に乗り込む。プラットフォームに渦巻く

群集の中にまぎれこむたび、ぼくこそこの中でいちばん個性的な人間なんだと思った。そしてぼくはまわ

りで起こっているすべての出来事を、別の遊星からやってきた観察者のような目で眺めた。ぼくの言葉、

ぼくの世界は、この腋の下にあるのだ。ぼくは大いなる秘密の守り手なのだ。もしぼくが口を開き話しは

じめたなら、交通は麻痺してしまうに違いない。ぼくが言いたくてならぬ言葉、会社へのまい日の行き帰

り、じっと胸の中にしまいこんでいるもの、それはまさにダイナマイトだった。だがこのダイナマイトを

投げつけるだけの覚悟は、まだぼくにもできていなかった。ぼくはそれを、黙想にふけり反芻し自分を説

得させようとするように、少しずつ齧りつづけていた。あと、五年、あるいは十年もたてば、こいつらを

一人残らず吹っ飛ばしてやろう。」

ヘンリー・ミラー『南回帰線』講談社文芸文庫 河野一郎


「是蟹、疑島(ゼカイ ギトウ)」

これは、数日前に夢の中で見た(頭に浮かんだ)言葉である。私は、夢の中でどこか山上の寺院にいた。

そこで経典を見るとこのような句が書かれていた。

蟹これ、島を疑う(疑わず)と読むのだろうか。

朝起きてからノートに書き写し、しばらくその意味を考えた。蟹のように潮に流される生きかたをしてい

ると全体が見えなくなるということであろうか。こんな夢は初めてだ。関係はないと思うが、私の誕生星

座はかに座である。島は日本か。