龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

生きること、書くこと 4


私にとって“書く”という行為は“祈り”に似ている。その効用なり意義について十二分に認めているつ

もりであるが、それでも時に馬鹿らしく感じられる。もっと実用的なことにエネルギーを注いだ方が正解

ではないかと考えると途端に面倒くさくなってくる。そして書くことからも祈りからも遠ざかる。しかし

人間とは現金なもので、バイオリズム的周期の谷底か仏滅か、大殺界か何か知らないけれど必ずやってく

る苦境の中で再び祈り始める。少なくとも私の場合はそうである。それで私は本来信仰心など全く持ち合

わせていないのであるが、祈ることが面倒くさいと明言する正直さと純粋性のゆえに祈るときには必ず聞

き届けられるのだ。だから基本的にはいつも神に対して感謝している。一方、書くことについてはどうか

といえば、どういうわけか私にとって“書く”という行為は共有された全体意識を分解し、分析すること

に実存的に繋がっている。それはタブーに触れ、全体を敵に回すことであるから個人的にはとても気が重

い。気が重いので滞り勝ちになるのであるが、その時々の出来事や世間の事件なんかで気の重さを押し分

けて勇猛果敢にとまでは言えないかも知れないが、とにかく書く行為へと私の背中を押す力が働く。


前置きが長くなったが私は今回、前回の続きで“差異の意味”をテーマに日本社会における在日の人々に

ついて述べるつもりであった。しかしその前に久間元防衛相の「しょうがない」発言について述べたい。

その問題が今回、書く行為へと私を導いたからだ。米国の原爆投下によってヒロシマナガサキで数十万

人の人間が死んだ。今も後遺症に苦しむ人々がたくさんいる。よって頭の整理であれ自分を納得させるた

めであれ「しょうがない」と公言してはいけない。だからその発言が問題視されるのも辞任に追い込まれ

たのも当然だ。それが大前提での私の考えである。結論から言うとそれなら言わなきゃよかったのかとい

うことである。戦後日本の国家としてのあり方は、口に出さずとも心の中で「しょうがない」と何百万回

も言い続けてきたのではなかったのか。そうでなければ、どうして原爆を投下して無辜の民を平気で殺害

するような米国の核に守ってもらおうと考えるのか。おかしいじゃないか。久間氏の発言は防衛相として

大いに不適格であるが、彼は全体の意識を代弁していたつもりであったのである。それが何より問題なの

だ。いかにも日本的ではないか。本音と建前が乖離し、言葉と行動が乖離している。見かけと実質の違い

を露呈させてしまうと日本社会では潰されてしまうのだ。しかし本当は、しょうがなくないのであれば、

しょうがなくないなりの生きかたをしなければならない。具体的には原爆投下の必要性を国家としてきち

んと検証し、しょうがなくなかったということを米国にそして世界に主張しなければならない。どうして

いつも国内問題で済ませようとするのだ。この“内弁慶”どもめ。安倍首相と小沢の党首討論は久々に笑

わせてもらった。小沢が「米国の原爆投下に対する責任をどうして追及しないのか。」と迫ったのに対し

て安倍首相は「そんなこと言うが、あんただって自民党の幹事長時代にはそんな主張はしてなかったじゃ

ないか。」と返した。傑作だ。子供の口喧嘩並であり夫婦喧嘩のようでもある。どっちが父ちゃんでどっ

ちが母ちゃんか知らないが。しかし、安倍首相の言う通りだ。少しでもそんな考えがあるなら政権の中枢

にいた時に言えよ。国家として筋道を通すのであれば国内問題として収めるな。しょうがなくなかったと

いうのが日本全体の総意であるならば米国にそう伝えて謝罪を求めなければならない。世界から核の廃絶

を求めるのが日本の国家理念であるなら、先ず日本は米国の核廃棄を求めるべきではないのか。もちろん

米国が聞き入れるとは思えないが、そのように主張し続けることに意義があるのだと思う。そして日本は

米国と一線を画した生きかたを模索するべきだ。袂をわかってもよいではないか。日本が戦争を放棄する

ことを国是として守り続け、核の廃絶を訴えることと日本が米国の核の傘の元から離脱し必要性があるな

ら自国で核を装備することはいわば許される矛盾であると私は考える。何よりも日本は独立国家として自

国を防衛する必要性があるだからそのための手段に制限を設けるべきではない。尚且つ唯一の被爆国とし

て核の縮小、廃絶を世界に今以上に強固に訴えるべきだ。米国の核廃絶を説得することが出来れば、他の

保有国も追随する可能性が高い。米国を説得できるのは、ヒロシマナガサキに原爆を投下された日本

しかないではないか。一国家としてそれぐらいの気概がなくてどうするのだと言いたい。日本という国は

理念と現実の整合性のためにいつも内向きで卑俗に問題を収束させようとする。世界平和という理念が真

に確固としたものであれば日本は矛盾を超越した崇高へと向かわなければならない。それが日本の使命で

あると私は考える。


「狂気とは、理性の喪失であると解されている。しかり、理性の喪失ではあるが真理の喪失ではない。な

ぜなら、他が沈黙を続けているとき、真理を語る狂人が存するからである・・・・・・」

『南回帰線』ヘンリー・ミラー 河野一郎訳  講談社文芸文庫