龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

生きること、書くこと 6


その後、私は自分独りで妻側の弁護士と交渉しようとしたが、相手側の弁護士はまったく応じようとしな

い。筋道や道理に外れていることをしているのは妻であることを妻の弁護士はわかっているので話し合い

に応じないことが妻の利益になるとの判断なのであろう。こちらが弁護士を窓口に立てていると一応は話

し合いに応じる姿勢であるが、私が弁護士を解任した途端に無視を決め込む。無視するだけならともかく

相手の弁護士は妻と共謀して私を窮地に落とし込むような策略まで仕掛けてきた。まったく性根の腐った

奴らである。それも信じられないことに妻の弁護士は妻から1円ももらっていないのである。妻の弁護士

は私の両親に暴力を振るった妻の兄の友人だということで無料で引き受けているのだ。善意でやっている

というより何か断れない理由があるようなのであるがそれ以上のことはわからない。それで仕方なく私は

また弁護士探しを始めることになった。何人かの弁護士に会ったが、これまでの経緯を話すとみな一様に

勘弁してくれというような顔になる。その気持ちはわからないでもない。込み入った事件をそれも途中か

ら引き受けたくないというのは人情だ。弁護士がもらえる金額と事件の複雑さを天秤に掛ければ採算が合

わないと考えるのは無理もない。それで私は八方塞がりになってしまった。その後しばらくしてからタウ

ンページで見つけ出会った弁護士がいる。在日の弁護士だ。その弁護士とは会った瞬間から波長が合っ

た。それでしばらくの間、妻との紛争の参謀として何度か相談を重ね、現在正式に受任してもらってい

る。それでその在日の弁護士と話しをしているうちに前任の弁護士がいかに程度が低いかということが再

確認できた。具体的には書かないが、一つの法律に対する理解や解釈の深さが全然違うのである。これで

は訴訟に負けたのは当然だと思い知らされた。因みにその弁護士は韓国あるいは朝鮮籍の本名を使ってい

るが帰化しているものと思われる。弁護士とクライアントとの契約関係にあるとはいえ、そのようなぶし

つけなことは聞けないから私の推測なのであるがたぶんそうだと思う。話しをしていると何となくわかる

のだ。その推測が正しければの話しであるが、帰化しながらも自分の出自を示して生きていこうという一

弁護士としてのスタンスなのであろう。私はその姿勢に対して大いに共感する。ところで私が考えるに日

本国内で弁護士として働く以上その職務の性質上、帰化するのは自然だといえるのかも知れない。その

点、医者と弁護士では事情が違うのであろう。しかし医者として人間の身体を診断、治療する能力が国籍

と何ら関係ないのと同じように、日本国内で日本の法律を駆使する弁護士の能力も本来は国籍とは無関係

であるはずではないのか。身体も法律も複雑なシステム体系であるということに変わりないのであるか

ら。思うに日本の法律は(あるいは世界中どの国の法律もそうなのかも知れないが)論理以外の情実的な

要素に左右される割合が大きくて、その情実は法廷のゲームに参加する者の国籍を問うような排他的とま

ではいえなくとも閉塞的な意識から生じているように私には感じられる。在日の弁護士先生は、本名を使

っているために仕事においてそれなりの影響を被っているように見受けられる。私は今回の馬鹿女との紛

争以外にも以前に賃貸マンションの敷金返還でも訴訟を経験しており、これまで何人もの弁護士を経験し

ているがいつ電話を掛けても事務所にいるという弁護士は今回、初めてだからだ。しかし前任の弁護士に

比べれば、はるかに優秀なのは間違いない。どの程度、優秀かまでは私には判別できないが。もちろん医

者にしても弁護士にしても在日だから優秀で日本人は駄目だというような、そんな単純な話しではない。

専門職としての能力と国籍は何ら関係がない。では何が違うかと言うと日本人は、何か日本的システムを

象徴するようなものをなぞるような生きかたをしていて、そこから離れることが出来ないのである。なぞ

るべき対象が、もはやなぞるほどの価値を有していないにも関わらず、それをなぞっているのが一番効率

的でありまた安全であることを知っているからである。だから根本的に物事を考えようとはしない。それ

が医者や弁護士などの高度な専門性と社会的に大きな責任を有している分野にまではっきりと蔓延してい

るのだ。弊害は、そのサービスを受益するべき我々を質の低下で侵している。一方、在日の人間はこれま

で差別され日本的システムの外部に置かれていたがゆえに“なぞる”ことが許されずその結果、大変皮肉

なことに彼らの方が能力が高くまた良心的でもあるというような結果になっているのだ。私が言わんとす

ることがわかるであろうか。わかりやすく説明しよう。たとえば大きな花壇があってこれまで毎年たくさ

んの綺麗な花を咲かせていたとする。それが次第に土がやせ衰え、花を咲かせる力がなくなっているにも

かかわらず花壇の管理者はそれを認めようとしない。土の入れ替えをせずに同じ土(システム)で花を咲

かせ続けようとする。咲く花(現在の社会システムで成功している者)も少しはあるのだから花が咲かな

いのは個体の努力の問題だというわけだ。それでこれまで花壇の辺境に追いやられ、ろくに水も肥料も与

えてこられなかった株のほうがシステムの疲弊の影響を被らずに、同じ花壇の隅っこの方で美しい花を咲

かせている。そのように私の目には見える。因みに私が言うところのシステムとは制度の機械的な構造だ

けでなくそれに附属する大衆的な意識をも含んでいる。むしろ大衆的な意識が疲弊したシステムを支えて

いるようにも思える。そしてそれらが私にとって同質性のなかにおける差異の意味と結びついている。