龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

生きること、書くこと 7


医者や弁護士以外にもそのような例をあげることは出来る。私の世間に対する懐疑はとても根深いのだ。

私がよく行くバーがあるのだが、その店のマスターは有名な老舗のバーで働いていて7~8年ほど前に独

立し自分の店を開いた。客とほとんど話しをしない人なので、はっきりしたことはわからないがその人の

名前から在日の人間であることは間違いないと思われる。チャージもなく料金も庶民的な値段でありなが

ら何より味がきちんとしている。その店の酒を一度味わうと、他の店の水っぽいカクテルなど飲めなくな

る。もちろん日本一うまいというわけではないが、価格に比べてとても“きちん”としているのだ。酒の

味だけではない。マナーについても店内で携帯を使って話すことや、メールの操作で音を出すことが許さ

れない。男性は店内で帽子をかぶっていてはいけない。別に店内に張り紙がしているわけではないが、そ

の店の客はみなよくわかっていて携帯がかかってくるとあわてて店の外に飛び出してゆく。その店のカウ

ンター内の棚に磨かれて行儀よく並べられているグラスは、物でありながら内側から透明な生命を脈動さ

せているように見える。私はその店にいつも独りでこれまで優に50回は行っていると思われるがその店

のグラスを見るたびに、そのグラスのような透明できちんとした言葉で一篇の詩をそして文章を綴りたい

と思うのだ。その店のマスターが客と接する距離の取り方は日本人が日本人に対するものではない。私は

いつも密かに観察していて思うのだが、甘えがないというか違うシステムに属する者に向き合う態度なの

だ。それが“きちん”としたものの源泉であり、酒の味となって客との言葉なき対話を生み出しているよ

うに感じられる。この“きちん”としたものに対する対極が、同質性内部の甘えと緊張感の欠如であり、

それらが日本型システムの背後で権力構造や利権に結びついているように思われる。その他の例もあげよ

う。私がたまに行く別のバーがあるのだがそこで知り合い、顔見知りの関係になったある在日の男性(K

とする)についての話しである。これまでに何度かそのバーや付近の店で遭遇し、カウンター席に並んで

座って会話を交わしたことがある。私は初めて会ったときからKとも気が合った。やたらと物知りで物事

をよく考えている人物であった。在日であることを隠そうともせず、頼みもしないのに外国人登録証を

「ほら」と言って見せてくれた。私がその時に「俺はナショナリストだ。」と言うと、Kは思わずのけぞ

って椅子から落ちそうになっていたのが愉快だった。Kは新約聖書旧約聖書を隅々まで読んでいて仏教

の知識もある。世間知にも非常に長けていて話しをしていると圧倒されて私は何も言えなくなってしま

う。それでKが昼間、何をしているのかということは謎である。本人に聞いてもはっきりしたことは言わ

ない。他の客や店で働いている人間に聞いても知らないと言う。以前は印刷会社で働いていたようである

が、今は昼間はパチンコをしていて勝つと夜、バーで他の客にワインを一本開けて景気よく振舞ったりし

ているようだ。一説ではパチンコ店に雇われた桜の仕事、実際にそんな仕事があるのかどうか知らないが

出玉に関係なく一日中打って時給か日給をもらっているという噂もあった。Kは離婚をしていて何で元

“嫁はん”が家を出て行ったのかいまだにわからないと言い、それを聞いて私と店で働いている女性は笑

ってしまった。子供は小学生ぐらいの男の子が二人いて、可哀想に会うことが出来ないらしい。それで寂

しさを紛らわせるために一時は、ほぼ毎日のようにそのバーに飲みにきていたようだ。子供に会えない理

由を直接Kに聞いたことがある。なんでもKは離婚後きちんと養育費を送金していたようであるが、元妻

が市から生活補助を受けるために養育費はもらっていないということで口裏を合わせて欲しいと元妻から

頼まれたらしい。それでKは本人が言うところ“切れて”しまい送金を止めてしまったそうだ。そういう

ことで子供とまったく会えなくなってしまったということである。私はその話しを聞いて正直なところ、

子供のためでもあるのだからそれ位の不正は協力してやっても良かったのではないかとも思ったが、あえ

て何も言わなかった。でもKが子供に会えないという話しに私はやたらと同情を感じ、本気で私が仲裁役

になってKの元妻を説得してやろうかと考えたほどだ。結局、そのような出しゃばった真似はしていない

が。Kのような境遇の男は、今の日本には星の数ほど存在するのであろう。まあ私も似たようなものであ

るのだけど。しかしKと話しをしていて思うのは、明らかに自分の頭で考えた言葉を発しているというこ

とである。生活は荒んでいるかも知れないが、日本社会の中で絶えず自分という存在の“底”を問いかけ

続けてきた男の知性と品性が感じられる。大げさに聞えるかもしれないが“ここに人間がいる”という印

象に打たれるのだ。私は馬鹿弁護士と口論になっても負けない自信があるが、Kにはちょっと圧倒される

ものがある。そういう男が医者でも弁護士でもバーテンダーでもなく、昼間何の仕事をしているかわから

んとなると日本人はもう到底かなわないのではないかと気がしてくるのだ。