龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

生きること、書くこと 8


別に在日の人々におもねるつもりはないが一ナショナリストとして日本のために私は発言する。在日の

人々が全て、本名で暮らせるような社会に変えていかなければならない。日本がいたるところパチンコ店

だらけになったのも元を正せば日本社会の在日の人々に対する職業差別のせいではないのか。話しは逸れ

るが、パチンコ店にトイレットペーパーなどの備品を納入している人から最近こういうことを聞いた。専

業主婦がパチンコにのめり込んで生活を破綻させるケースが増えているようだ。私はもう10年以上パチ

ンコをしていないので詳しくはないが、最近の機種は半日もいれば4,5万の金は簡単にすってしまうら

しい。湯水のごとく金を使えるIT企業の社長夫人ならともかく、一般家庭の主婦がそんなことを日常的

にしていればどうなるのか。負けの込んだ主婦が、出している男に近づいて“遊ばへん”と誘うらしい。

信じられないことに、やけになった主婦が売春に走るのだという。それをパチンコ店の店長は把握してい

るのである。なぜならパチンコ店に備品を納入している人はパチンコ店の店長から直にそのような話しを

聞いたとのことだからである。もちろん全体の客の中でのごく一部のことには違いないが、それでもその

パチンコ店だけで起きていることとは到底思えない。日本全国いたるところでそのような光景が日々繰り

返されているのだと私は想像する。当然、在日の中には悪い連中もたくさん存在するのであろうが、私が

見るところ日本社会でまっとうに生きようと努力している在日の人々は、明らかに日本人より優秀であ

る。それは先にも書いたように“なぞる”ことが許されない姿勢、生きかたから生まれてくる優秀さだと

思う。日本社会はこれからいい意味でそのような在日の人々を、その力を取り込んで内部化していくべき

だと私は考える。何よりもこれまで在日の人々を差別あるいは疎外して苦しめてきた罪はあまりに深いの

ではないのか。彼らのこれまでの苦悩を理解した制度作りをするべきだ。はっきり言うが在日の人々の参

政権を認めるべきだ。“在日党”というものがあってもいいじゃないか。スパイ活動を心配する向きもあ

るかと思うが、どうであろうか。たとえば政党助成金ほか公費が支給されるということになれば、その使

途や活動内容について厳しく監視されることになるわけだからむしろ反対ではないかという気がする。現

行の日本システムに風穴を開けて変革してゆくためにはそうでもしない限り不可能だと思われる。日本的

同質性の中に“差異”を取り込んで社会を活性化し、それによって同質性の“質”を高めていくべきだ。

たとえば子供たちが日本で韓国人名や朝鮮人名の本名を名乗る多くの人々と交流することによって、違い

を超えて互いを尊重することがどういうことなのかを学んでいくのだと思う。一人の人間内部にあっても

他者との決定的な差異を認め、それを消化した人格形成がなされるときにその人間は強くなるのだと思

う。そのような社会であれば子供が親の首を刈り取って持ち歩くような事件は起きないはずだ。また国籍

が異なる者と一緒に国づくりをすることによって日本人は、全体の情報に操作されずにそれぞれが自分の

頭で考え始め、真の民主主義国家へ近づく第一歩となるのではないのかと期待する。私の主張に対し心理

的な抵抗感を感じる人も多いかと思うが、それは民族的な差別感情からくるのではなく日本の権力の実態

についての無知が原因であると考えられる。次回以降はある外国人ジャーナリストが日本について書いた

本をテキストにして、“日本の病理”を考察してゆきたい。



エスの弟たちがイエスに言った、「ここを出てユダヤに行き、そこにいる弟子たちにも、いま兄さんが

やっている不思議な業を見せてやるといい。世間の注目を浴びたいと思う者が、人目に触れないところで

行動していたんじゃだめだ。こんなにすばらしいことをやっている兄さんは、世間の前に堂々と姿を現す

べきだ。」(ヨハネによる福音)

新約聖書  角川文庫  ウイリアム・M・ギャロット監修

エスの弟たちはイエスを信用していなかった。故郷の町ナザレにおいて人々はイエスのことを、ただの

大工とあのマリヤのせがれにすぎないと言い合った。イエス自身、「だれでも預言者を尊ぶものだが預言

者の土地の人や、親族や家族だけは例外のようだ。」と言っていた。事実、イエスは故郷の町においては

あまり奇跡を行なうことが出来なかったようである。私はイエスが為したとされる数々の奇跡より、この

ような説話にイエスの神の子としての聖性と人間としての苦悩を見る。そして心が動かされる。イエス

唾を吐きかけ、鞭打った民衆の気持ちがわかるからである。本当は処刑したくなかったにも関わらずイエ

スを処刑せざるを得なかった総督ピラトの気持ちや、イエスを知らないと言ったペテロの気持ちがわかる

からである。そして“宿命”というものの地上的相貌が理解できるような気がする。私には今、ぼろを纏

ったイエスの目が見えてくるようだ。それは、どこにでもいる人間のごく普通の目をしている。