龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

在特会について

在特会在日特権を許さない市民の会)についてであるが、一つ一つの主張をつぶさに見ていると確かにその通りだと同意できることも少なくない。たとえば在日の人たちに認められている、特別永住資格制度については、かつて日韓併合時代に朝鮮人日本国籍を有していたという斟酌すべき事情はあるにせよ、現在、日本で生活している在日韓国人朝鮮人の祖父母が、旧日本軍によって強制連行で連れてこられたとする説は真っ赤な嘘である。その説については、徹底した反日教育が行われている韓国内の若者はともかくも、現在日本で生活している二世や三世の在日の人々が本気でそのように信じているとは、到底、考えられないものであるが、そのような虚偽の主張が特別永住資格を正当化する根拠となり得るものではない。当時の朝鮮人は自ら望んで日本にやってきて、終戦後も自ら望んで日本の地に定住し続けたものである。1939年に実施された国民徴用令も当初は日本内地の国民のみが対象であり、朝鮮人は適用対象外であった。朝鮮人に適用されることとなったのは、1944年の9月から1945年8月、終戦までの11ヶ月であり、よって強制連行の事実がまったく存在しなかったとは言えないが、それらの人々の子孫が、現在の在日永住者になっている訳ではない。そう言えば、在日若者の青春を描いた『パッチギ』でも、「生駒のトンネルを作ったんは誰やと思っているんや。」と涙ながらに日本の若者に語って聞かせるシーンがあったが、(1913年の工事中の落盤事故では152名が生き埋めとなり、20名の犠牲者が出た)、その工事には朝鮮半島からの出稼ぎ労働者も従事していたが、何も強制連行によって連れてこられてきた人々ではない。危険な仕事を出稼ぎの外国人労働者が請け負うケースは、現代においてすら世界中で見られる構図であり、差別や統治とは全然別の、純粋に国境を超えた労働力の移動の結果に過ぎないものである。よって在特会が主張するところの特別永住資格を撤廃せよと言う意見も一つの理屈とすればわからないではないが、どうなのだろうか、政治運動の取り組み方、考え方として俯瞰して見れば、ヘイトスピーチの問題を別にしても、私には間違っているところが大きいように感じられるものである。「特権」とは何かと言えば、本質的には既得権益である。既得権益は在日永住者だけに存在するのではない。たとえば、これまでに私が何度も述べてきた通りに、マスコミにはマスコミ特権というものがある。マスコミ特権は、在日特権などよりもはるかに巨大である。新聞業界においては、再販制と特殊指定によってこれまでの日本経済の深刻なデフレによる価格下落から保護されてきている一方で、部数の減少を食い止めるために一部の人には平気で値引き契約が販売店によって行われている。ならば法律も現状に合わせて変更してゆくべきは当然のことであるのに、再販制見直しの問題となると新聞業界は政治に猛烈な圧力を掛けて潰してしまうこととなる。今般の消費税増税における新聞業界の軽減税率適用への要求も同じである。これらの動きは本来の理屈から言えば、インチキ以外の何物でもないものである。しかし新聞やTVなどマスコミの既得権益はあまりにも大きいので間違っていることがわかっていても、日本の政治力ではそう簡単に修正、変更し得るものではないのだ。たとえば具体的に言えば、今や若者の新聞離れなどで新聞業界は大変な苦境にあると言われているが、それでも日々、大手新聞社は、数百万部もの朝刊と夕刊を発行しているのである。村上春樹氏などの小説が大ベストセラーであっという間に100万部売れた、などと騒いでも、大手新聞社は単行本と新聞の単価の違いこそあれ、毎日そのベストセラー本の数倍もの新聞という商品を売っているのである。その業界の商売慣行のルールを変更するとなると、明治維新のように時代を変革するぐらいの、とてつもなく大きなエネルギーが必要となってくると考えられる。また官僚には官僚の強力な特権があって、その既得権益に対して政治が本気でメスを入れようとすることが、いかに困難で虚しい試みでしかないということは、先の民主党政権の体たらくを思い返すまでもないことであろう。要するに何が言いたいかと言えば、在日特権も確かに既得権益の一つには違いないが、それだけを特別扱いして攻撃していても、恐らく何十年経過しようとも、日本の社会システムは1ミリも修正されないし、日本権力の対外的な尊厳が1グラムたりとも増すことはないということである。特別永住資格だけでなくパチンコ利権を見てもそうだが、パチンコホールはいかに儲けていても、現在では株式上場企業がないことから、正式に公共性の高い娯楽であると認められていないことは明らかであるが、しかし不法で有害な娯楽(私もそう思うが)として、日本の政治がパチンコを廃止に持ち込めるかとなると、悲しいことに絶対に不可能である。なぜならパチンコホール向けにパチンコ台を製造しているような日本の企業は超優良企業として立派(?)に上場しているので、パチンコを廃止することの雇用や経済への影響が甚大過ぎるからである。日本では発端において、いかにインチキやグレーゾーンに立脚した怪しげな特権であっても、長年の時の経過の中で一定の市民権が得られてしまうと、現実的には変更不可能である。一旦、日本型システムの内奥に組み込まれてしまうと、種々の既得権益同士が暗黙の連携関係を構築することとなって、それを下手に摘出したり排除しようとすると、権力によって潰されることの運命にしかならない。なぜならそれが日本の正義と秩序の本性だからだ。マスコミや政治が在特会の主張を無視して、あくまでもヘイトスピーチの側面だけを強調して批判したり、司法が在特会に多額の賠償命令を命じたりすることの背景はそういうことであると考えられる。よって同情すべき余地は大きいが、前にも述べたことであるが、基本的には在特会は敵を間違えているのだとも言えよう。在日の人々には罪はない。これは日本の病んだ統治構造の問題なのだ。怒りを表現するためであっても、罪のない人々を罵倒するような活動のやり方は、レイシズムだと批判されても仕方ないと思う。我々の敵は日本を管理している既得権益層の全てであると看做すべきだ。実は在日利権もその中に同質的に含まれているのである。木を見て森を見ず、とも言うが、1本の木だけを伐採しようとすれば、森全体に殺されることとなる。我々は鬱蒼としたこの森全体を切り開いて行くべきなのだ。物理的には無理でも、認識論的には可能である。遠大で実現不可能な理想論のように思われるかも知れないが、意外とその方法が最も安全で近道であるとも言えよう。