龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

Barでの会話

20歳代の若者と話しをしていると、いろいろと勉強になることは多い。と、言っても私の場合、たまに近くのバーに飲みに行って、そこでバーテンダーと話しをしたり、客同士の会話を横で聞いたりする程度なのだが。先日も散髪に行った帰りにどうしても一杯、飲みたくなって、馴染みのバーに立ち寄った。そこで25歳のバーテンダーと会話した内容を、私の感想を交えてここにご紹介させていただくことにする。その男は、石川県金沢市の出身で、現在、東大阪市のとあるワンルームマンションで一人暮らしをしている。これは余談だが、そのマンションはオウムの平田容疑者が潜伏していたマンションと目と鼻の先で、未だに(5日ほど前)新聞記者が何か変わったことはなかったかと取材に来ると言っていた。平田は、ほとんど部屋の中にいたようだから、変わったことなど有りようがないのに。それはともかく、男は関西のある大学を出た後、OA機器の会社に就職して営業をしていたようだが、その昼間の仕事とは別にある時期から、バーテンダーの仕事を夜間バイトでするようになったそうである。その後OA機器の会社を辞めてしまって、バーテンダーの仕事を本職として選ぶことになったそうだ。どういう雇用形態なのか知らないが、今はバイトではなく毎月、決まった金額の給料を店からもらっているようだ。会社勤めをしている方が安定はしているから、辞めるに際してかなり悩んだと本人は言っていた。私が、「しかし今時、コピー機やファックスなんか売れんやろ。」と言うと、バーテンダーは、はっきりと「売れません。」と言っていた。そういう時代なんだな、と私は感慨深く思ったのである。若者にとって今の日本は、業種にもよるであろうが、それなりの規模のきちんとした会社に勤めているよりも、場末のバーで酒を作っている方がまだしも安心感があるのである。本人もバーの仕事の方が楽しいと言っていた。思えば25歳とは、日本の変遷を考える上で意味深い年齢である。25年前は1987年だから、バブル景気の真っ只中というか頂点であった。札束が乱れ飛び、ディスコでは御姉ちゃんたちが、扇子を振りながら裸に近いような格好で踊っていた狂乱の時代である。(調べたところ、正確にはバブル景気の象徴とされたジュリアナ東京が開店したのは1991年で、日経平均株価が最高値を付けた1989年末から既に景気は下り坂へと折り返していたが。)バーテンダーは、高度経済成長もバブルも知らずに、ひたすら右肩下がりの株価チャートと軌を一にするような世相の中で生まれ育ってきたことになる。まあ若ければ、一人なら何をしてでも生きていけないことはないであろうが、それでも気の毒というべきか、考えようによっては、人生に対して元より金まみれの夢や希望という幻想がないだけに、精神衛生的には健全であるように思えなくもないが、それでも普通の人間は霞を食って生きる仙人にはなれないのだから限度というものがある。具体的には、現実的な話しであるが今の25歳ぐらいの若者には将来設計が成り立たないから、結婚ができない。結婚とは言うまでもないことだが、それなりの人生設計があって初めて出来るものである。バーテンダーも、「結婚などまったく考えられない。“出来ちゃった婚”ぐらいでしか結婚には踏み込めないと思います。」と言っていた。20歳代や30歳代の世代が、特権階級的なごく一部の者しか、具体的に結婚を考えられないのであれば、本当にこの先日本はどうなってしまうのだろうかと不安になる。因みに、私の息子は現在11歳だから、バーテンダーとは14年の差があるが、果たしてこの先14年間で日本の庶民階層が、結婚して家庭を持ち、子供を作り育てるというごく普通の生活能力を持ち得るかと考えると、かなり悲観的にならざるを得ない。今の日本は本当に公務員天国になってしまって、25年前のバブル経済時に比べて、円高、デフレの進行で貨幣価値は大きく変わり、人間一人が質素倹約して何とか生きてゆけるような状態に陥っているというのに、公務員の給料だけは下がることも無く、現状維持か微増を保ち続けているのである。その上で、官僚利権をさらに肥やすために消費税を増税するというのだから、何をか言わんや、である。役人と民間の生活感覚の隔たりがあまりに大き過ぎることと、政治が最終的には役人感覚に寄り添う政策に落ち着いてしまう所に、日本の限界があるように思えてならない。私は、バーテンダーにこう言ったのであった。「日本はな、君が生まれた25年前と今では、世相的には対極の状態にあるように見えるかも知れんけどな、本当は何一つ変わってないんやで。戦後の日本は、結局は見掛けだけで、国体の核となる思想は何一つ持ち得てないからな。中心の無い見掛けちゅうもんは、地に足がついていないから、極端に振れてしまうのや。それが日本や。だから、もっと言うたらな、25年前どころか太平洋戦争中も今も、本当は日本という国の根本は一緒なんやで。」
と言うと、バーテンダーは「それは、わかるような気がします。」と言うのである。48歳の私と25歳のバーテンダーでは戦争を知らないということでは共通しているが、高度経済成長もバブルすら知らない若者であっても、皮膚感覚的に日本の嘘はわかっているのである。つまりは国民を馬鹿にするような嘘はいつまでも通用はしないということだ。特にバブルの狂乱のような時代よりも、今のような不景気な世相の中でこそ、事の道理というのか、真理は際立つのではなかろうか。バーテンダーは、将来は金沢に帰って自分の店を持ちたいと言った。そのために勉強を兼ねて、休みの日には大阪のいろいろなバーを一人で飲み歩いているとのことであった。私は、「それがええで。売れもせんコピー機やファックスを売り歩いて年を取るより、今の内にしっかりと酒とバー経営の勉強をして、将来、故郷で自分の店持った方がよっぽど確かや。」と言ってやった。そうするとバーテンダーは、「でも僕は長男だから、いずれは実家の仕事を継がなければならないかも知れません。」と言うので、へぇーと思って「何の仕事や。」と聞くと、「実家は児童施設をやっています。」と言う。意外な答えに驚いて、いろいろと話しを聞いていると、その男の両親は7~8人ぐらいの児童を引き取って里親として育てているとのことであった。施設というよりも、普通の家で(と言っても大きな屋敷であろうが)家族として子供たちの面倒を見ているらしい。「収入はどこからあるのか」と聞くと、「国から出ています。」とのことであった。そのバーテンダーも小さな頃から、それら里子たちと一緒に風呂に入り、一緒に食事をして、兄弟のように育てられてきた、とのことであった。いろいろな境遇の子供たちがいると言っていた。親から虐待を受けていた子供、育児放棄されていた子供、障害児で親が面倒を見切れずに預けられてきた子供、皆、共通している点は、親から見捨てられた子供たちであるのでその親に問題があるのは当然であるが、子供たち自身も心理的な問題を抱えているとのことであった。ちょっと目を離すと、すぐにリストカットに走るような子や、刑務所に入った性同一性障害の子もいたということであった。虐待を受けていた7~8歳の子は、親が施設に面会に来た時に、その親を追い払うように石を投げつけたという。石を投げられた親は、もちろん、その出来事が原因ではないであろうが、その数ヵ月後に自殺したという。「親が皆、精神的に未熟なんだな。」と言うと、バーテンダーは「そうです。15、6歳ぐらいの母親に捨てられた子もいます。」と言っていた。バーテンダーは今でも、一緒に育てられた里子たちと交流を持っているようで、最近も、大阪に観光に来ていた施設出身の男性を仕事が休みの日に通天閣へ案内した、と言っていた。
私が、「これからは、そういう子供たちがもっと増えていくんだろうな。」と言うと、バーテンダーは「これだけ景気が悪いと、そうなるでしょうね。」と答えて黙った。私は、迂闊にもあるセリフを言いそうになって、思わずその言葉を引っ込めた。賢明な読者なら推察されるかも知れないが、私は、“そっち(施設)の仕事の方が、将来性があってええのとちゃうか。”と口にしそうになって、反射的に、やはりそれだけは言えないと考え直したのである。散髪帰りの私は、当初は1~2杯だけ飲むつもりで来ていたのだが、思わぬ所で悲惨な現実の日常に目を見開かせられるような話しを聞いてしまって、神妙な気分に陥りつつ、既に4杯も飲んでしまっていた。親に捨てられた問題のある子供たちを、愛情を持って我が子のように育てる里親には本当に頭の下がる思いである。そういう人々が少数ながら存在するから日本は何とか持ちこたえているのかも知れない。それに比べて日本の政治家は、特に国会議員は、すぐに金や地位の力に物を言わせようとするだけで本当に品格が劣るというか、下品である。どうして日本の政治はこれほどまでに下品な人間の巣窟となるのであろうか。政治家こそが、経済的に余裕のある人間も多いのだから里親になって、自分たちが世にもたらしている現実の過酷さを身を持って味わうべきではないのか。そういうことを考えていると無性に腹が立ってきて、5杯目の酒を注文しそうになったのだが、これ以上飲むと、前回のように酔い潰れてしまって私自身が下品な人間に成り果てる恐れがあるので、勘定を済ませてそそくさと家に帰ったのであった。人生とは不思議なもので、その時々のタイミングで私が聞くべき話しが、“向こう側”から早朝にさえずる野鳥のように、“私の側”へと舞い降りてくるのである。だからいつ何時も、私は油断することなく真摯な心持で偶然に耳を傾けていなければならない。たとえそれが酔っている夜の時間であってもだ。