龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

虐待矯正プログラムの必要性

子供は、親元で育てられた方が良いに決まっている。そんな事は、当たり前のことだ。しかしだからと言って、そういう大前提の考え方の下で、虐待されて一旦、施設に保護された子供が、安易に(私にはそう思える)元いた親元の家庭に戻される方法は、あまりにも問題が大きい。和歌山県で2歳の男児が、乳児院から帰宅後、僅か2週間で、父親から暴行を受けて死亡した。昨日のNHKのニュースによれば、児童相談所の責任者らしき人物が、このようなケースでは異例とも言える位の頻度で親が子供との面会に来ていたと、言い訳がましく語っていたが、そういう事は子供を復帰させる上での何の判断材料にもならない。どんな酷い親でも、子供を返してもらおうとすればそれぐらいのことはするものだ。しかし、それと子供を虐待する悪癖から矯正されているかどうかは、全然別の問題だ。というよりも実際には何の矯正もなされていない。どうしてそういう単純なことがわからないのだろうか。そこにある判断の基本的な思考回路は、これだけ子供に会いに頻繁にやってくるのだから、子供に対する愛情も相当に深くて大きいものになっているのだろう、よって親は今や子供への愛情を確認し、取り戻すことができているのだから、もう二度と暴力を振るうような過ちを繰り返すことはない、過去の暴力行為は一時的に子供への愛情を見失っていた結果に過ぎないものだ、というものである。これは行政の、親子間における愛情信仰というか愛情神話みたいな幻想に支えられた、一つの根強い思考パターンである。しかし私に言わせれば、子供に対する愛情と暴力行為の悪癖とは何の関係もないものである。それは大いなる勘違いだと私は思う。暴力衝動をコントロールできない人間は、愛情を持って育てている自分の子供に対しても、自己制御できずに暴力を振るうものである。日常的な暴力衝動、暴力行為というものは、対象への愛情とは無関係に発動する一つの独立した病理だ。あるいは無関係というよりも、むしろ愛情があるからこそ、その心理的な甘えが、暴力に転換されるとも見れるのではないのか。そういうことを専門家であるはずの児童相談所の職員や代表者が、今一よくわかっていないように見えるところに、日本の福祉行政の後進性が見て取れるものである。児童相談所が子供を家庭に復帰させるために自己満足みたいなチェックリストに頼る方法ではなく、子供を虐待する親に対しては、その病理を矯正させるための専門施設なりカリキュラムを国が別にきちんと用意する必要があるのではないのか。児童相談所が窓口となって子供を保護するやり方は現状のままでもよいとしても、日本に欠けているのは、肝心のその未熟な親をきちんと矯正させたり指導する機関である。一度でも虐待が原因で子供が施設に保護されるような事態になれば、その親に対して専門カリキュラムの受講が終了しない間は、子供を戻すべきではないし、戻してからも最低でも1年間くらいは、子育てについてのレポートを毎日その機関に提出させ、チェックするぐらいのことはするべきである。それが出来ない親であれば、親権が剥奪されることも止むを得ないと私は考える。そうなれば子供はどこかの里親に引き取ってもらう以外に仕方ないであろう。莫大なコストがかかると言われるかも知れないが、アメリカなどでもドラッグ中毒を矯正する施設はあるようであり、年々に虐待数が増えてゆく日本において子供の命を守るためであれば金のことをあれこれ言っている場合ではないと私は思う。また当然のことながら、当事者の親たちにも矯正についての受講費用など相応の負担はさせるべきだ。子供たちには自分で被害を訴えることも、逃げ出すこともできないのである。愛情信仰を過信しているだけでは子供を見殺しにしているのと同じだ。また日本には矯正のプログラムがないから、子供の保護か親の逮捕の選択肢しかないのである。こういう悪しき状況が抜本的な対策が講じられることもなく長年の間、放置されている所に、日本政治の堕落、怠慢、無能が如実に現れていると見ることができる。日本の政治家は何一つとしてまともな仕事をしていない。では一体、何をしているのであろうか。本当に不思議な国である。