龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

似非民主主義の討論番組

昔からそうなのだけど、私はどうも討論番組というものが嫌いである。見ていると、無性にいらいらするし、何かごまかされているような気がする。どういうことかと言えば、「朝まで生テレビ」や「タケシのTVタックル」、関西地方で放映されている「たかじんのそこまで言って委員会」などを思い浮かべていただければわかるが、複数のパネリストや出演者が、がちゃがちゃとした音声としてすら聞き取り難いようなクロストークを展開させているが、一応、絵面的には激しく議論、討論がなされているような雰囲気があるだけで、実質的には何らかの決着がつくような議論など何一つとしてなされていない。お祭りの決まった掛け声みたいに、わめき立てて見せているばかりで、それぞれの話しが噛み合っていないことも多く、たまに双方の意見対立がきちんとした討論として成立しそうな気配が見え始めたり、話の内容が事の核心に及びそうになると、いつも司会者が口を挟んで茶化したり、話の流れを一方的に断ち切ったり、論点をすり替えたりするものである。言って見れば、本当の討論を成り立たせないための見せかけの討論番組なのだ。テレビのバラエティ番組などそんなものだと言ってしまえばそれまでだが、それではバラエティではない本物の討論が日本に存在するのかと言えば、非常に心許ない状況であるとも見れる。日本の民主主義の本質とは、TVのバラエティに集約されるのではないかとすら憂慮されるものである。それでは本物の、真剣勝負の討論とはどういうものになるかと言えば、雑多な出演者に様々な議題を発言させるスタイルではなくて、一つのテーマについて、たとえば日韓の歴史認識問題などでもよいが、相対立する意見の識者が一体一で向かい合って2時間ぐらいの時間を掛けて、淡々としかも徹底的に討論する方法が考えられるであろう。そのような本来的な討論が、TVで公開されるとどのような結果になると考えられるかと言えば、必ずそこに討論の勝敗というか一つの決着が生ずるということである。それはディベートの勝ち負けとは、少し意味合いが異なるが、なぜならディベートとは討論の技術のみを競うものであるからだが、真実とはあるいは社会問題について採択されるべき一つの解は、そのような思想の対立構造における冷静で徹底した討論の中から、自ずと止揚して出来してくるものであるということだ。それが本当の議論、討論のあるべき姿である。反対に言えば、真剣勝負の議論を通じてでなければ、決して正しい解は導き出せないという当たり前のことなのである。しかし、そのような一体一の真剣勝負をTVで公開するとどうなるかと言えば、力の劣る方や、間違ったことを公然と主張してきた人間は相手側に徹底的に論破され尽くされて、社会的に潰されてしまうことになる可能性が大である。つまり反対に言えば、そのような事態を回避するための、お互いに労り合った討論が、TVのバラエティ討論番組の本質であると言えるものである。だから大抵、そのような討論番組にはレギュラーとして決まった顔ぶれが出てくることとなっている。一体一だと討論ではなくて、仲の良いもの同士の意見の交換か、互いに認め合うような対談でしかなくなってくる。しかし、どうなのであろうか。本来はプロの真剣勝負とは、相手を潰すか、相手に潰されるかの世界ではないのか。プロ野球を見てもわかる通り、打たれた投手は降板させられたり、二軍に落とされたり、最終的には引退に追いやられることにもなる。楽天の田中投手のように負け知らずで勝ち続ければ、10億円を超えるような破格の年収を得ることも可能となってくる。もちろん日本の民主主義にそこまで弱肉強食の議論が必要であるか、そぐうものであるかと言えば、それもまた極論に過ぎないものではあろうが、ある程度は真剣勝負の潰し合いもなければ、そこにあるのは、低俗にコーディネートされたまやかしの百花繚乱的な民主主義だけである。芸能界、マスコミというムラ社会に特有の錬金術的なお仕着せの議論があるだけだ。そういう低俗な似非民主主義の臭いが芬々と漂っているから、私はそれらの討論番組が嫌いなのである。皆さんはいかがお考えになられるであろうか。