龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

生きること、書くこと 11


ここまで書くと、私はこれ以上の辛辣さはないといえるほどの痛烈なメディア批判をしていると受け取ら

れるだろう。また事実その通りなのであるがもう一歩踏み込んで考えてみたい。確かにメディアは財界や

官僚、知識人とともに少数の支配者層の一部になってはいるがあくまでも民間組織である。大新聞社やT

V放送局は極めて公共性の高い組織であるが、それでも利益の追及を第一目的として経営の舵取りをして

いかなければならないことに変わりはない。よって公共的な利益と視聴率や部数などの目標との間で絶え

ず折り合いをつけていかなければならない宿命を背負っている。また自らの経営環境(社会の安定)を守

ろうとする行為も民間企業である以上当然である。それら相克のなかで大衆に知恵の果実を食べさせよう

としないからといって批判するのは筋道違いだといえるのではないか。またメディアが社会に対して、ど

の領域にどの程度まで責任を有しているかと見るのは難しい問題である。

「まず、何度でも指摘してはっきりさせるべきなのは、社会秩序の維持はジャーナリストや編集者の任務

ではないということだ。これは、日本の新聞人がひどく勘違いしている点だ。彼らは、平和と社会の調和

を維持するという儒教的な任務を、官僚とともに自分たちも受け継いでいると思っているらしい。」(3

26Pより引用)

ウォルフレンはこのように言う。また私もメディアの大衆に対する接し方に親が子供に対するような傲慢

とも卑屈ともいえるような臭いを嗅ぎ取ることはあるし、社会秩序の維持を彼らが本気で考えているのだ

とすれば、「一体何様のつもりやねん、だから日本はどんどん歪んでいくのじゃないか。」と言いたくも

なるのであるが、それが彼らの職業モラルであるならばどのような考え方をしようと彼らの勝手であり、

その部分だけ抜き出して批判することはやはりどこかおかしいような気がする。話しが長くなりそうなの

でまとめていくと結局、私の結論はメディアと大衆はお互いを映し、映されるような関係であって鶏が先

か卵が先かと言うような議論をしてもしようがない、メディアを権力のようにいう人がいるがそれは間違

いであって本当の権力は国家にしかない、メディアはアメーバのように絶えず姿を変えていくところに本

質がある、以上まとめて一番悪いのはだれかと言えば、政治家でもメディアでも大衆でもなく、やはり官

僚なのである。前回、私は在日の人々について書いたときに“日本のシステムを象徴するようなものをな

ぞる”と表現したが、そのなぞるべきものは水溜りにぼうふらが湧くように自然発生したものではない。

東大を出た高級官僚と呼ばれる連中が設計したものに端を発しているのだと思われる。そして事実、日本

は高級官僚の頭の中にある仮想世界が、そのまま再現されているような状況になっているのだ。それがま

さに政治化された社会の真の姿なのである。また気がついていない人は多いだろうが、今日の日本は明ら

かにファシズム化してきている。近年、その速度を増しているように感じられる。戦争へと向かうファシ

ズムは確かに恐ろしいが、戦争へと向かわないファシズムはもっと不気味だ。要するに戦争に関係なく国

家はファシズム化し得るということであり、一旦ファシズム化されてしまえば、平和が戦争へと反転し得

るということは言えるかも知れない。私は『人間を幸福にしない日本というシステム』を読んで、オウム

真理教の事件を思い起こした。同書が1994年に発刊されたということはオウム活動の時代背景の中で

書かれたということである。そして私は一つの理解に達した。当時、高学歴の若者たちがオウム真理教

魅せられた気持ちというか思考プロセスが見えたように感じられたのだ。それは、政治化された社会と偽

りの現実という概念を通して考えると胸にすとんと落ちるのである。彼らが“絶対幸福”と連呼した気持

ちもわかる。オウムの一連の事件において世間ではあまり注目されていないことで、私個人にとっては象

徴的だと感じられた出来事があった。それは1990年の衆議院選挙にオウムの幹部たちが揃って立候補

した結果、予想外の票の少なさに麻原彰晃ほか幹部たちが選挙管理委員会による票の操作があったと訴え

たことであった。明らかに彼らは本気でそう思っていた。インタビューアーは一体何を言っているんだと

いうようなきょとんとした雰囲気であり、私も当時同様の気持ちでTVを見ていたのであるが今、改めて

考えて見ると票の操作はおそらくなかったであろうが、そのように本気で信じた彼らの思考プロセスがわ

かるような気がするのだ。今、言えることはオウムは政治化された社会と偽りの現実が生み出した怪物で

あり、時代の必然だったのではなかったかということである。オウムの事件後10年以上経過しているが

日本の状況はより一層、深刻化しているように感じられる。それではどうすればよいのだろうか。なさな

ければならないことは、はっきりしている。それはウォルフレンが繰り返し主張する、官僚の説明責任

アカウンタビリティ)のあり方を明確にするということだ。官僚を定期的に国会に引っ張り出して起草

法案の説明や、既存制度の運用のされ方について支障や問題がないかを答弁させなければならない。そし

てメディアは国民にそれらをきちんと伝えるべきなのは言うまでもない。これは今後の日本のためには何

度でも繰り返し、要求していかなければならないほど大切なことだ。また私を含め全ての大衆は見せかけ

の茶番にだまされないように背後にあるものや全体の構造を見抜く知性を高めていかなければならない。

大衆の理解が深まればメディアの動きは変化してゆくであろう。メディアは官僚と違い、とても機敏で柔

軟であるのだからメディアに操作されるのではなく大衆がメディアを操作してゆくことを学んでゆくべき

だ。そして、それが日本が本当の民主主義国家に生まれ変わるための最も重要な要素でありハードルとい

うべきかも知れない。最後に今回テキストにしたウォルフレンの本が毎日新聞社から発刊されたというの

は本当に驚いた。毎日新聞いや新聞全般に対するイメージが変わったことを申し伝えておきたい。著者の

ウォルフレンが私のブログを目にすることはないであろうが、私は臆病者ゆえ彼の作品を楯にして、この

ように自らの胸中を吐露するような内容を書いたことに対しウォルフレンに少し申し訳ないような気がす

ることも書いておく。それから小沢一郎には、日本を健全な真の民主主義国家に作り変えていただきたい

とついでに書いておく。私はこれからあなたのことも研究していくことにしよう。くれぐれもお体だけは

大切に。

私はこれからも書き続ける。書くことが生きることなら、書かない理由があるであろうか。次回はいつに

なるかわからないけれど。


「もう、どうにも止まらない。」 山本リンダ