龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

生きること、書くこと10


「日本の官僚は支配階級に属している。官僚が権力をふるえるのは、一つには彼らが普通の人びとの知ら

ないことを知っているからだ。官僚は知識人や編集者や他の政府当局者とともに支配階級という少数派を

形成している。」(35Pより引用)

ウォルフレンは、日本の少数派である支配階級を“管理者”と呼ぶ。彼らは現状のシステムから利益を得

ているがゆえに、環境の根本的な変化をとても恐れる。しかし日本は世界的な建前においては民主主義国

家であるので、その整合性のために偽りの現実による大衆操作がどうしても必要不可欠となるのである。

誤解のないように言っておくが、メディアと官僚が秘密会合を開いて記事や放送内容を決定していると

か、起草法案について密談しているということではない。そのような憶測は、あまりに馬鹿げている。社

会の現状維持すなわち安定で基本的な利害が一致しているということである。また偽りの現実による大衆

操作などというと、メディアが嘘の情報を流しているように受け取る人もいるかも知れないがそういうこ

とではない。日本のメディアはそこまで落ちぶれてはいないが微妙なところはある。彼らが常に我々に真

実を伝えるよう努力していることは一見疑いようがない。これは中国に生産工場を持つ会社の営業マンか

ら最近聞いた話であるが、中国のある地方の花火工場が爆発事故を起こし、現実には従業員が140人死

んだのであるが政府及びメディアの発表では死亡者数は5人だと報道されたということであった。こうい

うことは中国では日常茶飯事なのだと思われる。140人と5人はおそらく大した違いではないのだろ

う。中国政府のヤフーやグーグルに対する検閲でも問題になった。日本ではそういうことはないと言いた

いところであるが、日本の実態は中国ほど露骨な圧力や単純な数値の操作ではなく大衆意識の誘導に結び

ついていて極めて巧妙である。そして、それらが政治化された社会の中で見えなくなっている。誘導の根

底にあるのは官僚やメディア、知識人などの管理者たちが現実を作り出せると考えていることである。た

とえば景気の回復動向について、過大に繰り返し報道することによって現実に個人消費が上向いてくると

いうような操作が様々な分野で行なわれている。そして偽りの現実を維持するための幻想が醸成されてゆ

く。最も大きな幻想は“政治”に対する考えだ。我々は、世の中が良くならないのは政治家が悪いからだ

と考える。政治家は金に汚くて、強欲で戦争を始めようと企んでいる。政治家はいつも悪者であり、懲ら

しめなければならない存在だ。そのようなイメージを植えつけているのはメディアである。しかし現実に

は、日本は官僚独裁主義であって権力の中心は政治家や政党にはないのである。政治家は結局のところ使

い捨ての道具に過ぎないのであって、政治家をいじめたからと言って世の中が良くなっていくことには繋

がらないのだ。ならば、どうしてメディアはこうも政治家を攻撃し続けるのか。

「もう一つ、変わっていないのは、普通の人々が日本の政治経済の構造について議論し、どうすればその

ありかたを変えられるかを考えることを、当局が嫌う点である。政治エリートは人々をできるだけ無知の

ままにしておこうとする。人々が中流階級としてのよりよい人生を求め、根本的な改革を要求しないよう

にするためだ。」(20Pより引用)

「日本の新聞の大半は、市民に情報を提供することが自分たちの第一の使命だとは思っていない。それゆ

え、新聞は一般の日本人を「純粋」だが政治的に無知に保つのに手をかしている。日本の新聞は、政治や

経済や生活上の表向きの現実であるタテマエを「管理」するために協力しているのである。」(37Pよ

り引用)

要するにメディアは、特定の政治家を攻撃することによって国民の目が権力の中枢に向くことを妨げ、結

果現状の体制を安定させるという原理を働かせている。メディアの政治と金に対する追求の執拗さは、カ

ルト宗教を髣髴させるものがある。日本民主主義宗教だ。事務所費だとか光熱費だとかつまらない理由で

一人の政治家を自殺にまで追い込んでおいて、その後釜に対してもまた同じような追求をしているとなる

とこれはもう何ていうか喜劇だ。たとえば高度成長時代には田中角栄のような政治家は国土開発の情報を

利用して一代で莫大な財を成した。しかし日中国交正常化など一時代を画する大きな仕事もした。時代が

違うと言われればそれまでだが、国政の場において家庭主婦の家計やり繰りのような下らない話題で時間

を浪費してもらいたくないものだ。何度も同じような光景を見せられているとこちらまで死にたくなって

くる。政治に金がかかるという構造自体に問題があるのである。

もちろんメディアは時に官僚を批判もすることはある。しかし年金問題にしても薬害エイズもマンション

耐震強度偽装問題も全て同じなのだが、ほとんど手遅れといえるような状況になって発覚してから批判

し始めるのだ。要するに権力の中心に対する監視機能がまったく働いていないということである。政治家

の不正やスキャンダルを暴きだすために執念で重箱の隅をほじくるような目の光らせ方とはあまりに対照

的ではないか。メディアと官僚は“現状維持丸”という名前の同じ船に乗っている。国民は置き去りにさ

れている。また同じ船に乗っているとはいえ船長は当然官僚であるので一般乗組員のメディアには船長に

対して意見することに遠慮があるとも言える。そういう意味では、日本には真に権力に対決する機関が存

在しないということであってこれは本当は最も深刻な問題なのだと私は考える。たとえば国旗掲揚や国歌

斉唱、首相の靖国神社参拝問題についてメディアは執拗にこだわる。これらは一見、メディアが権力に対

決しているような勇ましい印象を与えるかも知れないが実際はそうではない。権力に対決しているのでは

なくて冷戦下のイデオロギー対立を何度も繰り返し再演しているだけである。そしてそうすることで権力

構造の中心に位置する柔らかな本質を保護しているのだ。またイデオロギー対立を形を変えて際限なく繰

り返すことがメディアにとっては、おもちゃの水飲み鳥のような永久運動のメカニズムとなっている。知

識人と呼ばれる連中も同様である。権力に対決しているようで実は資本家の走狗(走る犬、手先の意味)

に成り下がっている。タレントになって喜んでいるような知識人は見るも無様だ。あるいは裏で官僚とつ

るんで、国民の知らないところでこそこそと絵を描いているかのどちらかだ。要するに国民不在なのだ。

そしてそれらが総合されたところの日本というバランスを、ウォルフレンは政治化された社会の偽りの現

実であると説明するのである。おわかりであろうか。