龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

政治不在の日本型統治様式

日本のマスコミが報道機関であるところの本来の社会的役割を越えて、本質的には特権階級的な政治集団であることを伺わせる象徴的な事件が、2006年のホリエモンこと堀江貴文氏の逮捕であったと思う。容疑は堀江氏が当時、代表を務めていたライブドア粉飾決算であったが、巷間でも言われている通り、風説の流布による粉飾行為で、2年6か月の実刑判決はあまりにも重過ぎるものである。反省の有る無しに関わらず、通常であれば執行猶予がつくパターンであったのではなかろうか。表向きの理由はともかく、堀江氏逮捕の直接の原因が、前年2005年のニッポン放送株取得を通じて、ニッポン放送子会社のフジテレビ買収が試みられたことにあったのは、先ず間違いないと考えられるものである。日本で最初にインターネットとテレビの融合を言い出し始めたのは、堀江氏であったと思われる。そして堀江氏は単に吹聴するだけではなく、それを本気で実行に移すだけの行動力と大胆さと、そして何よりも資金力があった。フジテレビの件は、フジテレビ側の猛烈な抵抗もあって結局はライブドアが所有するニッポン放送株全てをフジテレビが取得することで和解となり、フジテレビは約1400億円を支払って、堀江氏の率いるライブドアの傘下に陥ることから免れたのである。しかし堀江氏を社会に野放しにしておけば、いつまたどのような方法で国民に対して影響力のあるメディアの買収を試みることになるか知れたものではない。そういう危機感を抱いたのは買収される側のメディアは当然のことではあるが、それ以外の日本の管理者層で見れば、ここが最も重要なポイントなのであるが、それは政治ではあり得ないということなのである。シニカルな言い方をすれば、日本の政治不在の構図は、日本の政治を既得権益層たちの陰謀、謀略から清らかに独立せしめているということである。なぜそのように考えられるかと言えば、フジテレビ買収騒動の後、2005年の衆議院総選挙に堀江氏が自民党の支持の下で立候補しているからである。ライブドアの社長業を辞める、辞めないで自民党との折り合いがつかずに最終的には、自民党の公認候補ではなく、無所属での出馬となったが、小泉首相自民党が堀江氏の知名度や人気、行動力を高く評価し、応援していたことは明らかであった。その選挙についても堀江氏は、亀井静香氏に敗れることになりその翌年、2006年の1月に六本木のライブドア本社に強制捜査が入り、その後、堀江氏は逮捕される運びとなっていくのである。このような経緯から見ても、堀江氏が再びメディアを買収しようとしたり、また政治権力を有する可能性を危険視していた日本の権力が検察であることがわかるであろう。明らかに検察は、この時期の堀江氏を潰しにかかってきていたのである。ここに日本型統治の特徴があると言えるものであるが、政治よりも、マスコミや検察(官僚)の方に力があり、そして政治不在の構図の下で、マスコミと官僚は実質的な日本の支配組織として微妙に結びついているということである。マスコミ内部は政治工作の蠢く世界であり、市民の声を代表したり、国家権力を監視するものではなく(一応、建前はそうなっているが)、実際には権力の大枠の中で、そして権力側の事情で、大衆を洗脳、誘導したり、世論を調整することによって日本全体の秩序と統制が図られているものである。よってそのような微妙で暗黙の相互理解によって成り立っているような世界に、堀江氏が試みたように、資本の論理だけで新参者がいきなり土足で踏みこむような行為が、虎の尾を踏むことになり、逮捕、実刑判決へと流れたのだと私は考えている。仮に堀江氏が大手テレビ局のメディアか新聞社を買収し、新時代に向けての日本の変革を企図したような自由自在の報道をするようになれば、それまでの暗黙の了解事項であった、諸外国の要請を盲目に受け入れたり、マスコミの既得権益を慣習的に保護するための世論操作が打ち壊されてしまって、たとえば私がこのブログで述べているような意見がある日、急に日本の主流の考え方になっている事態もあり得る訳である。一旦、そうなってしまえば、まるで大雨で河川が決壊するようにマスコミの伝統的な地位や利益体質がハイパーインフレの如く暴落することとなるので、絶対的にそのような事態は阻止しなければならないと、つまり日本国民を一つの抑圧状態に据え置き続けなければならないという理屈になるものと考えられる。そしてそういうところでマスコミの利益と官僚の統治思考が合致しているのであろう。しかし、その考え方はマスコミと官僚には都合がよいであろうが、日本全体にとって見ればプラスになる考え方なのであろうか、ということである。真に日本全体の国益を見通すべく政治がないということが、戦後の日本の宿痾なのである。関連してもう一つ述べたいことは、堀江氏のことについてであるが、逮捕されたことの法的な正当性というよりも、検察に危険視されて狙われたことに関して堀江氏自身にもまったく問題がなかったとは言えないと思う。それはあまりに堀江氏が、マスコミ権力の問題やその問題の根深さについて無警戒で、無頓着であったことではないのかと考えられることである。私は個人的には堀江氏のことを金儲け志向が極端に強くて、日本全体の公共の利益を考える理念や思想があるようには見えないので特にファンではないし、支持するものでもない。しかし客観的に言っても、東大に入るだけの頭の良さと、このような不景気な状況下で莫大な金儲けを為し得る嗅覚というか才能を持っている人であることは間違いない訳である。それだけの人物が、自分が逮捕されることになる危険性の、あまりに日本的な構図がまったく見えていなかったという事実が、私にとっては看過できないことなのである。これは日本の教育問題とも関連することであるが、いかに頭が良くても、社会の表側の論理だけを信奉して猛進していたのでは、何か他の理由にかこつけて潰されてしまう可能性が高いということだ。出る杭は打たれる、と言えばそれまでであるが、直感的にそういう社会の不正や歪みを認識する能力を、日本のエリート層が持ち得ていないのであれば、そこにあるのは、やはり元に戻って日本の洗脳構造だけであり、その牢獄に日本は永遠に閉じ込められ続けなければならないのかということである。東大を卒業して財務省などのエリート官僚になっている人間たちが、自分自身や自分が属している省庁だけのことしか考えられず、また官僚の意向を受けたマスコミ組織が政治的に本来の政治を蔑にして、国民を洗脳し続ける。これが日本の本当の姿である。日本の全ての国民は、敗戦国民主主義教団という新興宗教の信者である。教祖を批判するような不遜な態度を取れば、ポアされることにもなりかねないので、気を付けなければならない。日々、お笑い番組を見て無邪気に笑っていることが、この国の奨励する最も安全で幸福な生き方であると言えよう。本質を見ることはあまりに危険である。