生きること、書くこと 12
ある日、ふとミラン・クンデラの小説『存在の耐えられない軽さ』という題名がひらめいて私の心を蝶の
ようにまとわりついた。昔、映画は見たことがあるのだが原作はまだ読んでいなかった。どうして今頃に
なって急に、題名が思い出されたのか自分でもよくわからない。私の無意識は少女のように気まぐれなの
かも知れない。それでいつものようにAmazonで文庫本を購入し早速、読み始めた。『存在の耐えられない
軽さ』は、ニーチェの“永劫回帰”についての説明から始まる恋愛小説である。人生が一回きりのもので
はなく、同じ瞬間が永遠に繰り返されるものであるならば、我々の行為の一つ一つは耐え難いほどの責任
の重さを引きずっている。それは逃げることも、許されることもあり得ない世界だ。しかし永遠に繰り返
される人生そのものは軽さとして現れうる。それに対して、回帰を想定しない世界とは移り行き、消え去
ってゆく世界である。それがどれほど悲劇的なものであっても消え去り、二度と戻ってくることがない世
界の美しさを誰も糾弾することはできない。一度だけ起こりうることはまったく起こらなかったのと同じ
であり、全てはあらかじめ容認され許されているのである。永劫回帰は一般的に日本人には理解しにくい
考えだと思われる。日本人には、人生において神との関係性を追求する精神が皆無であるからなのであろ
うか。ニーチェは“神は死んだ”と言ったが、日本には死ぬべき神が存在しないのである。それが問題な
のだ。
今回のエッセイは小説の内容について述べるのが主題ではない。私が書こうと思ったのは、実はこの文庫
本の装画についてなのである。女が男に寄りかかっている輪郭だけのシンプルな絵である。私は文庫本を
手に取る度に、どういうわけかこの絵が気になってしばし見つめた。この文庫本を買った人間がどれだけ
いるのか知らないが、手にとって読もうとするたびに美術館の絵を見る熱心さで装画を見続けた人間はお
そらく私一人だけではないのだろうか。そのうちにこれは素晴らしい絵だと感じられてきた。それで、ど
こが素晴らしいのかを考え続けた。そしてある瞬間にわかった。女と男が一体の人間に見えたのである。
豁然として女と男に分離する以前の、両性具有である人間本然の姿を見たような気になった。これが本書
の中でも触れられている、失われた半身を求め続けるというプラトンの神話を表現しているのかと得心
し、一人で静かに感動した。この装画は女と男の姿であると同時に対立と和解を、戦争と平和を、無知と
理解を、光と闇を、そしてそれら全てを包摂する世界の実相を示しているのだと思えた。女の白は昼で、
男の黒は夜だ。昼が夜に寄り添っている。あるいは善と悪が抱擁しているようにも見える。そこまで考え
た時、私はぎょっとなった。この装画が“歓喜天”の姿に見えてきたからである。