龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

生きること、書くこと 26


日本はいつからこのような国になってしまったのだ。

私は、前回ボクシング亀田一家に対するマスコミの過剰なバッシングを批判した。“やらせ”だらけのT

Vメディアに、反則程度のことで死に物狂いの人間を批判する資格はあるのかという内容である。私が言

う“やらせ”とは、たとえば「あるある大辞典」のような情報番組のデータ改ざんや、警察が暴走族を取

り締まるシーンの撮影において番組スタッフが事前に暴走族のリーダーと打ち合わせをしていたとか、バ

ラエティ番組におけるタレントの派手なリアクションであるとかということも当然含まれている。含まれ

てはいるけれど、私の主張の本意は個々の番組についてのことやメディアに限定されたものではない。も

っと広範囲であり、尚且つ本質的な問題である。わかりやすく説明すると、“やらせ”と言うよりは日本

社会に深く、拭い去りがたく蔓延する“やらせ的”な“雰囲気”である。それでは、“やらせ的”とはい

かなる状態を指して言うのか。私はそれを、架空の意図的な総意が対象を制御下において予測可能な質的

状態に留めようとする無言の圧力である、と勝手に定義する。予定調和的な結びつきを維持しようとする

カニズムとでも言おうか。おそらく亀田一家はどこか、既存の社会秩序を維持しようとする勢力にとっ

て、無視することが出来ない危険分子だったのではないのか。制御不可能だったからだ。だから潰された

のだ。亀田バッシングは、日本社会の“やらせ的”な構造の本質を象徴しているように私には感じられ

る。しかし亀田家は、本当に潰さなければならない“悪”だったのか。我々、一市民の“敵”なのか。

“やらせ”がTVの問題であっても、“やらせ的”なるものは、日本社会全体の極めて深刻な問題であ

る。深刻さの原因は、ほとんどの国民が問題の存在に気付いていないことにある。巧妙に隠蔽されている

からだ。


訴訟を経験したことがある人間ならわかると思うが、個人的な問題が司法の判断に委ねられた時に、一定

の鋳型にはめられたような印象を受ける。私は、そのこと事態を問題にするつもりはない。また問題に出

来るようなことではない。国家とは、あるいは権力とは畢竟するところ“鋳型”であるからだ。しかし鋳

型も年月を経れば古くなって磨耗してくる。また時代にそぐわないような型であれば、新しいデザインに

変更されなければならない。目眩まし的に一部法律が改定されたり、司法改革の重要性が唱えられたりす

るが、本質的なところでは権力の大衆に対する支配構造の型は何一つ変わっていない。個人的な例を紹介

しよう。私は現在、家庭裁判所で離婚調停を審議している最中である。調停の日時は土曜、日曜以外の午

前10時からか、午後1時からかである。なぜ、土曜、日曜に裁判所は開かれないのだ。お役所的と言っ

てしまえばそれまでだが役人の職務の本質は、そもそも国民に仕えるサーバントではないのか。犯罪者を

断罪したり、人の道を説くのも裁判所の役割なのかも知れないが、それらは法律や時代の趨勢による一般

的な考えに従って、要するに既存の権力を後ろ盾にした良識で人を裁いているだけであって裁判官や裁判

所の職員が一般国民よりも善良であったり人格者であることを意味するものではないと思う。人権意識を

過剰に肥大させて、犯罪者におもねることは馬鹿げている。しかし、私は離婚調停という制度を利用して

いても犯罪者なのではない。私は日常きちんと仕事をして納税もしているのである。よって平日に仕事の

時間を割かなければ調停できないというのは、何とも理不尽でナンセンスに感じられるのだ。まだ私は自

営業者なので、時間に融通がきくからそれほどのダメージはない。しかし弁護士も言っていたが、会社勤

めの人間は、特に銀行員や大企業のように人事考課の厳しいところでは離婚調停で仕事を何度も休まなけ

ればならないことで精神的に参ってしまうのだという。そういう人たちの大変さは、私にはとてもよくわ

かる。結局、これらのことは役人の公僕としての意識とは対極にある、民間への侮蔑と大衆に対するエリ

ート意識からなおざりにされていることではないのか。役人は全てサービス業従事者である。特別に偉い

わけでも、高尚なわけでもない。土曜、日曜に仕事をしないなんて、おまえらみんなユダヤ教徒か。デパ

ートの売り子を見習えと言いたい。


それで司法や警察組織など諸々の管理者的な部門の判断基準が、マスコミが支配する情報や道徳と結びつ

いているように感じられることが問題なのだ。たとえば、“警察捜査24時”的なドキュメンタリー番組

がよく放映される。警察官は執念でひき逃げ犯人を検挙する。緻密な内偵捜査の上で麻薬取引や賭博開帳

の現場に突入する。時には酔っ払いを介抱してあげたり、誰かの愚痴を辛抱強く聞いてやったりもする。

そこで語られる警察はいつも、正義と良心の人である。我々40歳代の世代感覚で言えば“太陽に吠えろ”

のような刑事ドラマが思い出される。刑事の殉職シーンが伝説化するほどに美しく描かれていた。それら

の番組が悪いというのでも、間違っているというつもりもない。ただしそのような番組ばかり見せられて

いると冤罪事件が発生するとは思いもよらない。警察が嘘をつくわけがないと思い込んでしまうのであ

る。私自身20歳代位までは殺人犯の容疑者が一旦、犯行を自供しているにも関わらず、後に自白を撤回し

人権派の弁護士や支援者たちと一緒に無罪を勝ち取るために闘っているということがよく理解できなかっ

た。古い事件では幼稚園の保母が園児を井戸穴に捨てて殺害し一旦自白したものの、その後の裁判で発言

を撤回し無罪を主張していることに怒りを感じたものである。しかし、現実には先の富山県、強姦事件の

ように冤罪は起こるのである。警察も時には平気で嘘をつくし、都合の悪いことは隠そうとするのであ

る。そればかりか、今の警察官は痴漢や万引きをしたりストーカーに変身することも珍しくはない。“冤

罪”は、世の中の“やらせ的”なるものの最悪の形での発現といえる。警察組織の提灯持ち、あるいは警

察美化への洗脳的な番組提供に徹しているメディアの責任は大きいと私は考える。そういえば、国民との

直接対話であるはずの“タウンミーティング”の場におけるやらせ質問という問題もあった。今日の日本

は、どうしてこうまで“やらせ的”なるものに支配されているのであろうか。


私は、その大きな原因は2点あると考える。先ず第一に戦後日本の、自民党政権の期間が長すぎたことで

ある。一政党があまりに長きにわたって国を統治し続けると、物の見方や考え方が国民の意識レベルで定

着してしまい、その時代に本当に必要な根本的な改革が出来なくなる。今般、騒ぎになっていた自民党

民主党の大連立への動きも国民不在の“やらせ的”な圧力が働いたように感じられる。ただし今回のごた

ごたは、小沢一郎という一政治化のキャラクターに負う部分が大きいと思われる。あくまで私の直感的な

印象に過ぎないが、小沢は首相になることを避けている。そのラインを自ら潰しているような気がする。

自民党に在籍している時にも、首相になる機会があったが辞退している。小沢は見掛けの強面的な印象と

は裏腹に、臆病な部分があるのではないのか。強引と臆病が表裏一体となって同居しているところに、小

沢という政治家の個性があるようにも思える。しかしその類まれな力量ゆえに日本を本当に変えてゆくこ

とに対する恐怖心が潜在的にあるのではないか。だから、民主党の党首を辞任したいというのは本音だっ

たと思う。小沢の民主党には政権担当能力がないという発言は、自分が政権与党、党首(首相)になるこ

とへの不安感の表れのように私には感じられた。小沢にはちょっと複雑なところがある。先の参院選で圧

倒的な勝利を収めた直後に体の調子を崩してしばらくメディアに姿を見せなかった時から、あれっと言う

感じはあった。彼は副首相であるとか幹事長などのNO.2のポストが落ち着くのである。だから民主党

が単独で政権を担いたいのであれば菅直人を党首に据えるべきだと私は思う。話がまた逸れそうなので元

に戻す。

“やらせ的”なるものへ流されてゆく第二の原因はメディアの構造にある。本当の競争が行なわれていな

いということである。これ以降については話しが長くなるので次回にする。



『私を捨てて』

それなら、

捨てようじゃないか、私を

未練などあるものか

私とは

私の幸福であり、希望であり、

温もりであって

あなた方が言うところの

人間らしさの中にある私だ

私は、私を捨てて

人の間を行き過ぎて

誰もいないところで

私以上のものになろう

命を捨てないで

俗世間を捨てないで

私は、私を捨てる

人間の喜びを全て捨てて

私は詩人になる

私は、私の全てを一篇の詩に捧げよう

誰にも読まれず、

誰にも認められないけれど

神々を喜ばせ

1万光年彼方の

惑星の運行に影響を与えるような

そんな詩人に

私は、なろうじゃないか