龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

生きること、書くこと 29


第一に死刑制度についてである。日本について見れば、大多数の国民が死刑制度の存続を望んでいる。私

もまた、その内の一人である。しかし国家権力の殺人を認めるのであれば、権力の構造や質、行使のされ

方について我々国民一人一人は、よく理解するように努め、絶えず監視しなければならない。それは国民

の権利ではなく義務だと私は思う。日本人が諸外国から、一般的に子供っぽく見られるのは権力に対して

無関心であり、また無知であるからではないのか。社会の理不尽や不条理に耐え忍び、愚痴をこぼさず、

大勢に従った世間的な価値観の中で自らの生きる道を見出してゆくのは青年が大人に成熟していく上での

通過儀礼であると言える。しかし今日の日本では、そもそも青年を大人に育ててゆく社会的な活力が完全

に失われている。だから痴漢などの破廉恥行為がこれほどまでに多発するのだと思われる。それはそれで

大変な問題であるが、国民が絶対的な国家権力に対して疑問を持つことをはなから放棄しているようでは

成熟以前の問題であり、人間が家畜化された状態であるといえる。家畜化された人間は、思慮がないから

即物的かつ本能的である。今の日本の現状がまさしくそうなのである。悪いやつは死刑によって合法的に

殺すべきだ、そのように考える時に我々は権力というものを通じて、権力に対して盲目的である自分自身

をよく考えるべきなのである。

第二に父と子の関係についてである。父ホアキムは結局、サルバドールが処刑される日にも面会に来なか

った。(サルバドールの母親は病死していた。)姉妹たちが身を投げ出すようにしてサルバドールに寄り

添い、処刑後30年以上経た今日も、失われし命の名誉を回復するために闘っている姿とは対照的であ

る。しかし運命とは恐ろしいものである。それが、私がこの映画を見終わった直後の率直な感想であっ

た。父ホアキムは、自らが直前に恩赦によって救われた代わりに、息子サルバドールは最後まで恩赦によ

って救われることなく死刑に処せられたのである。それも“ガローテ”という世界一残酷な方法で。どう

してホアキムが、息子サルバドールに会いにゆくことなど出来たであろう。今の日本には、家庭に父親は

必要ないという考えをする人々が多い。しかしこれだけは言っておく。運命は父親から息子へと受け継が

れるものである。父の罪は息子が償わなければならないのだ。息子は父親の影だともいえる。一面におい

て父子関係は、母子関係よりも深いのだ。女は子を身ごもり出産する。よって子供は肉体的に、あるいは

物質的には母親のものである。しかし神は女の肉体的な現実性とバランスを保つために父から子へと伝え

るべき“精神”を与えられたのだと思う。異論はあるだろうが私の勝手な考えだ。動物行動学者リチャー

ド・ドーキンス(極端なまでの無神論者である)の名著『利己的遺伝子』を読めば、よくわかるが雌は受

胎している期間、外部からの攻撃に極めて弱く無防備である。天敵に捕食されれば遺伝子を後の世代に伝

えることができない。女が暴力を忌避し、平和を求める感情の根源は、受胎期間中の不安定さにあるのだ

と思われる。理想としての恒久平和を望む気持ちに男女差はないが、生物学的な出発点が異なっているの

だ。よって女は生物学的な要請に従って現状を維持しようとする傾向が強い。極端に言えば貧乏であろう

が、不幸であろうが先の見える変化の小さい環境が受胎、出産に適しているからである。男は本来、現状

を打破し、より良い安定のためにリスクを冒して闘う生き物である。そう、サルバドールのように。そし

て男の支えはイデオロギーであり精神なのだ。乱暴な言い方かも知れないが、社会の質は女性(物質)的

感性と男性(精神)的感性のバランスによって決定されるのだと考えられる。家族の問題は、絶えず権力

に基づいた制度の枠組みが投影されている。今日の日本のように父親の役割、存在が軽視される風潮は、

本当は女性優位や女性尊重とは何ら関係ないものである。と言っても、そのような考えはまったく受け入

れられないであろう。それは先にも言ったように家畜化された日本人ばかりになっているので物事の本質

が決して、日の目を見ないからである。男と父親の去勢は、女の現状維持本能を利用し一部の支配勢力が

既得権益を維持するための社会操作の側面が極めて大きい。社会機構からボルトが一本、抜かれているの

だ。支配、被支配の縦の構造を男女問題や家庭という水平的な次元に移し変えて本質を隠蔽し、世の中が

根本的に変化しないようにブロックしているのである。私に言わせればとてもずるいやり口である。その

ブロッキングが強力すぎるために日本は閉塞状態から逃れられないように私には見える。父から子へ伝達

すべきものの価値(無形の精神)が意図的に軽んじられているが故に、日本は即物的な方向に振れ過ぎて

いる。適切な表現かどうかわからないが、今の日本はとても“霊的に”乱れているのだ。そこに日本の不

幸があるように見える限り、私は全ての欺瞞が許せない。

最後に、イデオロギーについてである。サルバドールはMIL(イベリア解放運動)という極左の反政府

組織に加わっていたアナーキストであった。政党や連合組織のいかなる権威やヒエラルキーも拒絶し、資

本主義システムの転覆を目論んでいた。日本では連合赤軍事件があった。1970年当時は、世界的に既

存の権力や圧制に対する闘争という潮流にあったのであろう。その後、冷戦は終結し世界は一定の安定を

得ているようにも見える。しかし日本では1990年代にオウム真理教の事件があった。オウムは宗教の

枠を超えて、社会システムの転覆をテロリズムによって引き起こそうとした。私はキーワードは、“わか

りやすさ”と“わかりにくさ”ではないかと思う。資本主義対共産主義、右翼対左翼、男と女というよう

な二項対立はわかりやすい。それに比してオウムの事件はとてもわかりにくい。事件後10年以上経過し

ているにも関わらず、社会はいまだにオウム事件を消化できていないように思える。世の中の本質は、ど

んどんわかりにくくなっているのに既存の支配勢力は未だに二項対立的なわかりやすさに還元するパター

ンから抜け出ることが出来ない。新しい時代に対応する能力がなく、またそのような全体的な構造にもな

っていないから戦争責任の検証のようなところにいつも落ち着いてしまうのである。それでオウムのよう

な手に負えない出来事は、思考放棄してしまうのだ。私にも仏教的な世界観、考え方に影響されている部

分が大きいのでオウムの事件から心を離すことはできない。シンパシーを感じるわけではないが、オウム

幹部であった死刑確定囚たちの現在の胸中を想像することもある。ただし一口に仏教的と言っても、一つ

の教義に従って全体的な統一行動をなす信者たちとは、私は自分が精神的に対極のところに位置している

と考えている。“大乗”か何か知らないが信者たちが白いヘッドギアを被って居並び、声を揃えて「地獄

に堕ちるぞ」と叫ぶ光景は違和感というよりも激しい嫌悪を感じた。オウムに限らず、宗教が既存の価値

体系との共存共栄の道を選ばず、先鋭化してゆくと革命運動になる可能性を孕んでいる。しかし仏教はあ

るいは宗教は本質的にそういうものではないと私は思うのである。政治は“数”であるけれど、宗教は本

来“心”の領域であって“数”の力をたのんだ時点で堕落していると思う。心の領域に数の概念は不必要

のはずだ。1足す1も、1たす100も0に溶け込んでいかなければならない。宗教的、芸術的価値は孤高の

中にこそある。また、数の力でしか世の中を変えることが出来ないと言う政治的考え自体が、民主主義最

強の幻想だと私は思う。選挙の度に投票率が問題にされるが、反対に数の力でしか世の中を動かせないと

大衆に信じ込ませるための誘導だと私は考える。大多数がそのように思い込んでいる方が支配者側には都

合が良いからだ。しかし本当はそうではないのである。全てが多数決で決定されているわけではない。多

数決で決まることは、ごく一部であって世の中は基本的に制御ソフトのようなプログラムに従って流れて

いるのである。よってたった一つのバグが致命的な機能不全を起こし得る。世の中には、そのようなバグ

が無数に存在する。バグを内部から書き換え、修正するには多数決に頼らなくとも、命をかけて革命を起

こさなくとも可能なのである。要するに権力などの内部構造をよく理解し、それに伴った意識があればた

った一人でも社会に影響を与えることは可能なのだ。私はなによりもそれが言いたい。しかし既存の権力

や権威は、大衆たちに対し自分たちにとって都合のよい考えをさせるようにと誘導する。そして圧倒的な

数の力がなければ無力のように思わせようともする。今の日本においては、その支配・被支配の縦のライ

ンに新たな対立軸を作っていかなければならない。そのような最適の社会構造を模索する必要性がある。

そうしなければ日本は滅んでしまうであろう。たった一人でも世の中を変え得ることを知るのは禁断の果

実である。私は一篇の詩を書きながら、禁断の果実を食しているのである。

ところで私は、そもそも何を言おうとしていたのか。そうだ、メディアの構造についてである。次回に続

く。



「ぼくは諸君のために歌おうとしている。すこしは調子がはずれるかもしれなが、とにかく歌うつもり

だ。諸君が泣きごとを言っているひまに、ぼくは歌う。諸君のきたならしい死骸の上で踊ってやる。歌う

からには、まず口を開かなければならぬ。一対の肺と、いくらかの音楽の知識がなければならぬ。かなら

ずしもアコーディオンやギターなんぞなくてもいい。大切なのは歌いたい欲求だ。そうすると、それが歌

なのだ。ぼくは歌っているのだ。」

『北回帰線』ヘンリー・ミラー 大久保康雄訳 新潮文庫